2021年1月12日火曜日

斎藤美奈子著「中古典のすすめ」



 「中古典」とは著者斎藤美奈子の造語で、「古典未満の中途半端に古いベストセラー」を指すという。文学研究の世界では、「古典」とは上代から近世までの文学のことで、近代以降は「古典」とは呼ばないというが、現代人の感覚では夏目漱石や森鴎外は充分に古典だろう、と言う。

 「中古典」は歴史的な評価が定まっていない本で、「古典」に昇格するか否かは現時点では神のみぞ知るとも言う。本書では1960年代から90年代初頭までの計48冊を取り上げている。本人も書いているが、取り上げられた本は彼女の趣味が反映していることは否めないが、なかなかうまく選んでいると思う。

 本書の元になった文章は、紀伊國屋書店のPR誌「scripta(スクリプタ)」の連載「中古典ノスゝメ」である。2006年から14年間連載したらしいが、今回上梓するの当たって大幅に書き直したという。7月にあとがきを書いているが、新型コロナウィルス禍を考慮しての書き換えも認められた。


 斎藤美奈子という名前は知っていたし、面白そうな活動をしていそうだと思ってはいたが、朝日新聞の書評で読んだくらいで、まとまった本を読んでいなかった。今回読んで、なかなか面白いと思った。女性から見た考えも散見するが、余り読者の世代、ジェンダーを気にしていないような書きっぷりが、爽やかとも言える。

 この本の中では、取り上げられた本の批評以外に、似たような著作も取り上げられていて、同類の著作が俯瞰できる。

 著者は、取り上げた作品を、1)若者たちの生態を映す青春小説、2)「自立の時代」の女性エッセイ、3)反省モードから生まれた社会派ノンフィクション、4)懲りずに湧いてくる日本人論、に整理している。確かに、そのように思える。

 各作品の名作度と使える度を星印で3段階に表している。総じて、60年代には甘く、日本人論には厳しいように思えた。

名作度で星 3つ:

橋のない川、日本の思想、キューポラ、江分利満氏、白い巨塔、文明の生態史観、あゝ野麦峠、どくとるマンボウ、赤頭巾ちゃん、日本沈没、自動車絶望工場、兎の眼、桃尻娘、原発、悪魔の飽食、なんとなく、窓ぎわの

使える度で星 3つ:

橋のない川、感傷旅行、あゝ野麦峠、青春の蹉跌、どくとるマンボウ、自動車絶望工場、兎の眼、スローな、桃尻娘、原発、悪魔の飽食、窓ぎわの、見栄講座、極東


因みに私が見たり読んだりした作品は多くはない。

読書:日本の思想、わたしが・、されど、どくとるマンボウ、二十歳の、自動車絶望工場(?)、スローな(?)、四季・奈津子(?)、蒼い時、なんとなく、ノルウェイの(11作品、23%)

映画(ドラマ):キューポラ、江分利満氏、わたしが・、白い巨塔(ドラマも)、あゝ野麦峠(?)、青春の蹉跌(ドラマのみ)、日本沈没、ひとひらの雪、ノルウェイの(9作品)

2020年12月25日金曜日

金原ひとみ「アンソーシャル ディスタンス」

  『コロナ禍の現在を先取りしていた作品』、と朝日新聞に書かれていたので、図書館で雑誌(新潮 2020年6月号)を借りて読んだ。

 最近の金原の作品は特にそうなのだが、自堕落な生き方をしている若い人たちを描いているものが多い。この作品も、積極的に生きていない、また死のうともしない男女大学生二人のダラダラした生活や会話から成り立っている。女・沙南の堕胎手術のシーンから始まる。恋人・幸希との子供である。時はコロナ禍。幸希の母は繊細で過敏であり、外出から帰ってきた幸希に対してうるさく手洗いなどを要求する。息子に対して過干渉である。夫が単身赴任で不倫をしていることでイライラしていることもあるらしい。

 二人は沙南がパパ活で得た金で飲み食いしたり、ラブホでセックスする。

 幸希は自分の考えを持たず、相手が気にいるように生きている。恋人の沙南に対してもそうであり、心中しようと言われて、反論もせずに鎌倉に3泊4日の死出の旅に出る。その元手も祖父から得た就職祝いの10万円である。

 結局、幸希の曖昧な話しで沙南の気持ちは揺らぎ、心中はしないで帰ることになる。

 若者二人の取り留めのない、どうでもいいような生活や会話で構成されているのではあるが、ここには今の社会の暗さや、不平等への不満が溢れているような気がする。ただ、金原ほどの練達の作家であるならば、もう少し書き様があったような気がする。次の作品に期待したい。

2020年10月27日火曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

 

 


 内田樹氏が9人の論客をまとめて作ったと思われる本である。

 反知性主義という事をそんなに多くの人が知っているとは思われない。かくいう私も言葉しか知らなかった。しかも、この本を読むまでは、知性が足りない人が陥る態度と間違った理解をしていた。


 反知性主義の定義は、人それぞれ違うだろうが、内田樹が書いたものを読むと理解しやすいだろう。内田は、時に具体例を引きながら下記のように定義している。


*反知性主義という事の理解のために、先駆者であるホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」を引用している。

 ”反知性主義は、思想に対しての無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。(中略)指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。


*反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。(中略)「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。


*知性というのは個人においてではなく、集団として発動するもの(この本では下線部分に傍点)だと私は思っている。知性は「集団的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。


*ホーフスタッターは反知性主義者の相貌を次のように描き出している。反知性主義の「スポークスマンは、概して無学でもなければ無教養でもない。むしろ、知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。(中略)自分たちが注目する世界の問題について、真剣かつ高邁な目的意識をもっている」


*反知性主義を決定づけるのは、その「広がりのなさ」「風通しの悪さ」「無時間性」だということである。(中略)反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。


 内田はまとめとして、以下のように書いている。

 私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。


 内田の小論を読んだ後の私の理解では、「知性的な人」とは他人の考えを真摯に聴き、自分の知的な枠組みをそのつど作り替えている人である。また、その「知性」は、同時代に影響を及ぼすだけではなく、過去を振り返って検証され、また未来において生かされるものであるだろう、ということである。


 この本が出版されたのが2015年であるせいかも知れないが、反知性主義者の代表として、平川、小田嶋両氏は元大阪市長の橋下徹氏を挙げている。

(尚、時間的な制約もあり、想田和弘氏、鷲田清一氏の小論は未読)






中村文則著「R帝国」


 以前より中村文則という作家に興味があった。近作「逃亡者」が評判になるに及び以前の作であるこの本を読む気になった。しかし、残念ながらまるで漫画(劇画)の(原作の)ようなシーンのつなぎ合わせで、文章に深みがなくストーリーもありきたりで、第一部を読んだ時点で読むのを止めた。第二部まで読めば違った感想になるかも知れないが、現時点ではそういった評価になった。評判の「逃亡者」に期待したい。

雑誌の書評評者:江南亜美子(週刊文春 2017.10.05号掲載)

 絶対権力の「党」が支配する国で、人々はどのようにふるまうのか

トランプ政権の誕生あたりからアメリカでは、オーウェルの『一九八四年』が再評価され、その機運は日本にも飛び火した。不可視の絶対君主〈ビッグ・ブラザー〉による徹底された情報統制と史実の改竄は、今日の日本の言論空間をどこかほうふつさせる。フィクションの力でもって、読む者に危機感をもたらすのがディストピア小説だとすれば、『R帝国』もその流れを汲む近未来SFだ。

 物語は島国の「R帝国」が開戦した日から始まる。絶対権力の「党」が支配するこの国では、国民は批判的な意見を表明するなり張り巡らされた集音装置により検挙され、しばしば謀反者は公開処刑される。人々は、高度な人工知能を搭載した「HP(エイチピー)」と呼ばれる端末から情報を得ており、その管理もまた「党」の得意とするところだ。

 戦争には自衛という大義名分が必要だが、この戦争は何かがおかしい――。二人の男が、政府の欺瞞と真の目的に気づく。一人は会社員の矢崎。もう一人は形骸化した野党の幹部議員の秘書である栗原だ。それぞれ、女性兵士アルファ、秘密組織のサキと出会うことで、巨大な相手に無謀な戦いを挑むはめになる。

 恐ろしいのは、二人の必死の奮闘をあざ笑うような「党」の余裕である。人々の行動原理や深層心理を知悉する彼らは、例えば人口の八割に及ぶ貧困層の不満が上でなく、最下層の移民に向くよう情報をコントロールする。団結ではなくあくまで分断へ。さらには薬物投与によってつらい過去の記憶を抹消した従順な市民としての第二の人生まで、提案してみせるのだ。矢崎は言う。「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」

 果たして、不都合な過去や真実を隠蔽する見せかけ上の安寧は、国民をどこに先導するのか。大義よりも「半径5メートルの幸福」に固執し、「真実」から目をそらし続ける大衆、その集団的な認知バイアスこそが、悪夢的な全体主義をさらに後押しするのだと、読者は気づかされるだろう。最も手ごわい敵は、結局人間の本能に組み込まれた、恐怖心と暴力性なのだ。

 本書はいわば、ヒーローなき戦争小説である。作中、『ルワンダ虐殺』や『沖縄戦』という架空の国の物語がネット上のバグとして現れるのだが、統治者の一人は「向こうの方が現実で、我々の方が現実じゃない可能性だってあるじゃないか」と言う。裏返せば、SFにみえる本書に現実が潜んでいるのかも。著者の警鐘にしばし耳を傾けられたし。

2020年9月21日月曜日

第163回(令和二年上半期)芥川賞受賞作 高山羽根子「首里の馬」


 どうやら今回は、順調に高山と遠野の二作に決まったらしい。”らしい”、というのは、選評をざっとしか見ていないからだ。以前は詳しく読んだりしていたのだが、選から漏れた作品が載っておらず内容をチェックできないので、選評を読んでも充分には理解できないからだ。なぜ受賞した作についての選評だけではなく、最終選考に残った5作すべてについての評価を載せるのだろうか。載せるのであれば、それら作品も掲載すべきだと思うのは私だけだろうか?
(閑話休題)
 あらすじ、と言えるほどのものではないが、下記のような内容である。
 資料館でのデータ整理、クイズを出す仕事、台風で庭に迷い込んだ宮古馬についてのエピソードが並列に綴られる。しかし、これらの間の結びつきは何も感じられない。選者の平野啓一郎もその点を指摘している。
 小説は論文とは違うので、読者がいかようにでも解釈して良いのだが、どうも最近の作品には作者が何を書きたかったのかわからないものが多い。この作品もそうである(遠野の作品についても、そうであるが)。昔の小説を読むように、処世術を学ぼうというつもりはない。しかし、作家が何を訴えたいかは知りたい。
 選者の吉田修一は次のように言っている。”候補に挙がってくるたび、作品は面白いのに、この作者が何を書きたいのか分からず首を捻っていましたs。今作ではその何かがくっきりとしたような気がします。高山さんはおそらく「孤独な場所」というものが一体どんな場所なのか、その正体を、手を替え品を替え、執拗に真剣に、暴こうとする作家なのだと思います。”
 主人公がクイズを出す相手が居るのは、空の上(宇宙)だったり、海の底だったり、戦地で捕らえた敵を閉じ込めておくシェルターの中であったりする。 相手が勝手に話したことなので、それが本当かは分からないが、たしかに孤独な場所ではある。彼らは、そこで淡々と過ごしているさまが感じられる。吉田が言いたかったのは、こんな単純な話ではないだろうが、その一端ではあるだろう。
 川上弘美は、この作品を一押しした(○をつけた)らしい。理由は、”静かな絶望と、その絶望に浸るまいという意志に、感じ入りました。”、と書いている。
 奥泉光は、”孤独なもの、孤立したものへの愛惜を、リアリズムを基本に、そこからはややずれた虚構でもって描いた一篇で、世界のあらゆる事象が、どんなにつまらなく見えるものであれ、かならず存在の痕跡を残すのだとの思いが細部から匂い立つ。”、と受賞作にふさわしい佳篇だと評価している。
 こんな事柄を表わす場所として作者は沖縄の首里を選んだ。先の戦争で、自分たちが住んでいた土地を更地のようにされてしまった沖縄。祖国から見放され、今も米国の植民地のように自由に使用されてしまっている沖縄。毎年何度も台風に襲われ被害を受けても立ち上がる沖縄。失われたものが多くても、あったという存在が全くなくなるわけではない。それを意識して作者は沖縄という場所を選んだのか?それは彼女に訊かないとわからない。いずれにしても、読者の興味を引きつける作品であることは間違いない。一読に値する作品だと思う。
<あらすじ>(AMAZONから) 
 沖縄の古びた郷土資料館に眠る数多の記録。中学生の頃から資料の整理を手伝っている未名子は、世界の果ての遠く隔たった場所にいるひとたちにオンライン通話でクイズを出題するオペレーターの仕事をしていた。ある台風の夜、幻の宮古馬が庭に迷いこんできて……。世界が変貌し続ける今、しずかな祈りが切実に胸にせまる感動作。

2020年7月29日水曜日

井波律子と高橋和巳と雑誌『対話』

 井波律子が今年の5月に亡くなった。私は中国文学についての素養もないし、好きでもないが、彼女の名前は知っていた。井波の名前を見るたびに高橋和巳を思い出していた。井波は和巳に教えを受けたことがあり、共著があると記憶していたからだ。
 共著としては、吉川幸次郎と小川環樹編集の中國詩人選集(岩波書店刊)13『王士禛』及び(あるいは)15『李商隠』(いずれも高橋和巳注)が考えられた。しかし、手元にある本を見ると、第一冊発行はそれぞれ昭和37年(1962年)、昭和33年(1958年)であり、井波は未だ大学には入っていなかった。
 井波は1944年生まれであり、和巳が大学を辞した1969年3月には博士課程であった。だから接点はあった。

 井波の著作に手掛かりはないかと、一般的な読み物である『中国文学の愉しき世界』(岩波書店、2002年刊)を当たると、「高橋和巳さんのこと」という一文があった。”はじめてお目にかかったのは、いまを去ること三十八年、一九六四年春のことである。わたしは京大文学部三回生として、中国文学を専攻するようになったばかりだった。”、とある。吉川研究室の新入生歓迎会の二次会の祇園のカフェに和巳がフラッと入って来たらしい。その後、井波が書いた「円地文子論」を読んだ和巳から、自宅に来るようにと誘われ、吹田の公営住宅を訪ね、たか子夫人も交えていろいろな話をし、楽しい時間を過ごした、という。
 その後、和巳は明大助教授として東京に行ってしまったが、吉川教授の定年退官に伴い、後任助教授として六七年秋に着任する。その折に、同人雑誌『対話』に誘われ、井波は参加したという。それならば、手持ちの雑誌『対話』で井波の名前を見つけ、頭に刻みつけたのかも知れなかったのかな、とも思った。女性の中国文学者などは、当時は珍しかったからだ。
 『対話』6号には、井波の「「文心雕龍」論」が載っていた。しかし、中国文学の素養がないので、私が読んだという形跡も記憶もない。7号のシンポジウムは「エロティシズムと文学」であり、井波も参加している。読んだ形跡はあるが、井波の発言は一回であり、印象に残るものではないと思われる。

 一方、手持ちの雑誌『國文學』第19巻第5号(昭和49年/1974年4月号)『特集 井上光晴と高橋和巳ー苦悩と告発の文学』には、井波が「高橋和巳と中国文学」を寄せていた。
 

 和巳の中国文学研究を、李商隠らを論じた個別作家論と六朝美文論などの総論的考察の二つの系統に分けることができるという。
 和巳が研究対象に選んだ文学者たちは、みな深く根源的なところで、どこか彼自身に似ているという。例えば、潘岳と江淹はその過剰な感傷性において、陸機と顔延之は何よりも論理を重視する観念性において、そして李商隠は、遂に現実をも文学視するにいたる、文学への過度の執着によって。
 和巳は「六朝美文論」の中で、美文の特質として、まず第一に<惜しみない個人の感情の強調>なる要素を挙げ、第二の特色として<顕著な装飾性>を、第三には<人間の総体的な論理と文章の定型的リズムの合体というもっとも優れた特質>を挙げているという。
 これらの研究が、自身の小説に固有な文体ー語り口、を発見し形成していくうえに、非常に大きな影響を与えたものと考えられるという。一方、和巳は同じ絶望を語るにしても、六朝美文と同様饒舌に比喩等の技法をほとんど乱用しながら、それとの逆の地点から、これでもかこれでもかと、醜悪さ・悲惨さ・むごたらしさといった負の要素を畳みかけていくことによって、そうした心的状態を強調しようとするのである、という。
 この後段で、井波は『憂鬱なる党派』、『日本の悪霊』、『悲の器』、『堕落』の文章をを具体的に論じている。そして、「潘岳論」、「江淹の文学」、「陸機の伝記と文学」を論じながら、和巳の中国文学研究が<論理>と<感傷>の間を行きつもどりつしていると述べる。また、陸機評価に士大夫の小説を目指した和巳の夢と抱負の投影をみてとることは容易であろうと書く。
 多分、私はこの一文を読み、井波と和巳の繋がりを感じ取ったのであろうと思われる。
(この一文は『文芸読本 高橋和巳』(1980年、河出書房新社刊)に転載されている)
 

 ちなみに、「中国文学の愉しき世界」に編まれている「高橋和巳さんのこと」は読んだ記憶がなかった。他の文章はどこかに書いたものらしいが、この文章のみ書き下ろしであるらしい。ならば、読んだことがなかったのは不思議ではない。

 書き忘れたが、井波はこの文の後段で、”お通夜には行けなかった、高橋さんが亡くなられたことを確認するのが怖かったからだ”、と言う。かくも井波の心の中には和巳が入り込んでいた。もちろん、当時、私を含めて多くの若者(学生たち)の心の中にも和巳は深く入り込んでいた。

2020年7月13日月曜日

金原ひとみ 著(初エッセイ)「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

 
 

 初めて読んだ金原ひとみの作品は、芥川賞を受賞し雑誌に掲載された「蛇にピアス」であった。綿谷りさの「蹴りたい背中」とのダブル受賞であったが、金原の作品に興味を持った。読んだときの印象は、もう覚えていない。その後、映画を観た時、かなりの衝撃を受けた。この作品の印象から、多作になるとは思えなかったが、その後、順調に作品を出している。むしろ、綿谷をはじめとした同年代の作家に比べれば、圧倒的に多い方だろう。
 今回、このエッセイを読んで、多作の理由が分かった。彼女にとって、生きづらい社会からの救いは書く事と恋愛だと言う。
 この作品が初めてのエッセイという。ウェブ連載だったからだろうが、同じようなイメージの内容が繰り返される。やっつけ仕事だったからかも知れない。この作品の中に、締切りに追われる彼女の姿が描かれている。
 内容は、友達との会食、といっても主に痛飲であり、会話は相手の愚痴で、主に不倫の話。そして、金原自身のこの社会での生き辛さが語られる。
 作家が書くエッセイの全てが実生活だと言えるのだろうか?虚もあるだろう。別に実でなくても面白ければ良いのだから。しかし、この作品は、ほとんど実のような気がする。彼女の小説よりも人間が表されているからだ。書いていないことはあるだろうが、嘘は書いていないような気がする。
 彼女の書く小説が好きでよく読むが、彼女の住んでいる世界には馴染めない。性や年齢の違いもあるが、自分を虐めすぎる性格にもよる。特にこのエッセイは、読んでいて辛かった。付箋を付けたところが、添付のように8カ所もあった。
 彼女には、自ら死なないで欲しいと思う。でも最後のページに、「この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。」、と書かれていたので安心した。しかし、その後に、「でも夫に殺されたいと願うことが増えた。」、と書かれているのには唖然とした。でも、このエッセイに書かれているように、小説と恋愛があれば、生き続けるだろう。

朝日新聞・読書好日:乖離の中に存在する自分