2015年6月8日月曜日

車谷長吉著「赤目四十八瀧心中未遂」

 
 5月17日に車谷長吉さんが亡くなられた。69歳であった。
 早速、直木賞受賞作である「赤目四十八瀧心中未遂(ーしじゅうやたきー)」文春文庫版を図書館から借りて読んだ。
 車谷の作品の多くは私小説とされる。私は短篇全集などに含まれている以外には嘉村磯多などの私小説と言われる作品を意識して読んだことはない。他に読むべき作品があったというだけで、特別な理由はない。だから私は私小説なるものがどのようなものかは良く分からない。どうも作者が経験したことを素材にして、とりわけ一人称(場合によっては三人称)で書く作品を私小説というらしいが、多くの小説は作者が経験したことを踏まえて書かれているから、その密度がとりわけ大きいものを指して、そう分類しているのであろう。
 私小説であろうがなかろうが、読んで面白いと感じられれば、良い小説である。そう言った意味で、この作品は良いエンタテイメントであった。
 この作品は、私(生島)が東京に戻って再び会社員になってからの心境などで始まり、あいだに物語を挟んで、最後にまた東京に戻ってからの行動で終わっている。私はこの構成をレビューして初めて認識した。私が読んだ内容をすぐに忘れてしまうせいもあるのだが、あいだの物語の印象がそれだけ強かったという事であると思う。この始めと終わりの章は、主たる(あいだの)物語を私(作者)がいかにも経験したという証しのために補完的に書かれた章であり、もし作家がもっと長生きしていたならば、構成上分かり易くなるように縮めたのではないかと思う。
(ついでに言えば、山根という新聞社に勤める知人がわざわざ訪ねてきて、小説を書くことを薦めるのも、同様の仕掛けである)

 それはともかく、私(生島)は大学を出て東京日本橋にある(大手の有名)広告代理店に就職したのであるが、仕事が嫌になり、また諸般の事情から身を持ち崩し、姫路、京都、神戸、西ノ宮、そして尼ヶ崎(アマ)へと流れて来る。そこで伊賀屋の臓物(モツ)の串刺しを仕事として引き受ける。仕事は、暗い安アパートの二階の部屋で、朝から晩までずっとやらなければならないものであるが、私はそれを休みもとらずにやり続ける。やり続けられるのは、私(生島)がすべてを捨て、何も考えていないからではない。何も考えない人間に、この苦行をすることはできない。私(生島)がインテリで虚無になりたいと思い、自分を落としていこうとするからだ。だからその底は見えないほど暗い。仮に本当にすべてを捨てようとするならば、その底は抜けており、明るいはずだ。

 物語は、その一日中暗いアパートを中心に日々繰り広げられる生活ー刺青の彫り師である彫眉と情人(愛人)のアヤちゃん、息子の晋平との触れあい、夜になると男を連れ込む辻姫(娼婦)と男たちの話し声、時々来る伊賀屋の主人せい子ねえさんとの会話などーを綴りながら、男がゾクッとする(男の象徴が勝手に歌を歌い出すような)ほど美しい女性アヤちゃんとの成行き上のまぐわい、逃避行、心中未遂へと進展していく。
 アヤちゃんは、兄が組の金を使い込んだために、代金の替わりとして博多に行くことを余儀なくされている。博多に行けばシャブ漬けにされ、身を売らねばならず、最後には骨がぼろぼろになり、使い物になったならなくなった時点で捨てられてしまうことが必定である。だから、逃げる。兄が殺されても良いから、私(生島)とともに赤目四十八瀧に行って死のうとする(振りをする)。成り行きでついてきた私(生島)の眼を見て、この人を道連れに出来ないとアヤちゃんは心中を断念する。そして、戻りの電車の扉の閉まる直前に降り、私(生島)と別れてしまう。その結末は、いかにもアヤちゃんが苦界に身を沈めるために博多に行く決意をしたように思わせているが、本当にそうだろうか?
 今(昭和50年頃)の世の中に、組の金を使い込み、追われているようなヤクザな兄の替わりになって苦界に身を沈めようなどという女はいるだろうか?多分、昭和20年代から40年代にもいないだろう。いや、親であれば別であるが、それ以前にも、そんな女はいなかったのではないか?

 作者は私小説のように見せかけて、話しを作っている。勿論、創作なのですべてが作者の経験したことでもないし、誇張も嘘もあって当たり前だ。だが、私たちは経験していない、あるいは知識のないことに関しては、あたかも作者が書いた事を経験した事のように思いがちだ。作者はそれを良く知っていて物語を作っている。そして我々はそれに踊らされる。冷静に考えてみれば、この(あいだの)物語に書かれた事柄のすべてが、どこかの本に既に書かれているような(あるい映画で描かれているような)ステロタイプな事柄のの誇張(面白可笑しくした話し)と受け取られる。
 しかし、作者にとっては、そんな物語は読者に面白可笑しく読んで貰うための仕掛けであり、どう読まれてもどうでも良い。本当は、それまで身につけてきたことの全てを捨て、どこまでも落ちてゆきたいと願いながら落ちられなかったインテリの私(生島)の生き様と虚無を知って欲しかったのではないだろうか?