2015年12月30日水曜日

柿崎明二 著「検証 安倍イズムー胎動する新国家主義」(岩波新書)


 この本は安倍首相の思考と意志を、国会審議や政府の会議の議事録、著作、公表された提言、報告書など「首相自身の言葉」から探ったもので、関係者からの伝聞に頼っていない分、確からしかがある本になっている。もちろん、著者の見解がそれに加わっているので、「絶対的な客観性」(そんなものはこの世の中にないかもしれないが)が担保されているわけではない。しかし、一読に値する本と私は思う。
 私はこの本を読んで、安倍イズムのキーワードは大きく2つあると思えた。一つ目は占領レジームからの脱却、二つ目は国家主導主義である。
 安倍首相は、祖父の岸信介の考えに基づいて、岸がやり残した事を実現しようとしている、と良く言われている。すなわち、それが「戦後レジームからの脱却」である。具体的には、占領下の7年間は「日本の歴史の断絶」と、とらえている。だから、自らの手で戦前につなげるべく変えていこうという考えである。しかしながら、戦勝国が考えているような「戦後レジーム」ではない。そんな事を言い出したら国際的(外交的)にとんでもない話しになってしまう。もちろん、本音はそこにあるのかもしれない。「戦後レジーム」、つまるところ「占領レジーム」の基層である。すなわち、憲法、教育基本法など占領当時に制定された法律は、日本国の手になるものでない(米国のニューディーラーの手になるものである)ので改正すべきという事である。すでに教育基本法は変えられてしまった。憲法も改正の危機にある。岸信介は、現行憲法を「全面的に検討して自主憲法を制定して独立を完成させる」という認識を持っていたという。憲法を改正してはじめて真の独立を勝ち得た事になるというのだが、一方で、依然として米軍基地が沖縄をはじめとして、各地に存在し、しかも「おもいやり予算」まで支払っているのをどう考えるべきであろうか?対米従属の外交姿勢を取り、世界の各国から「米国の周縁国」と思われてしまっているのをどう考えるべきなのだろうか?
 岸はまた、北一輝やドイツの産業合理化運動に共鳴した事から、統制経済、国家主導主義を推進した。安倍もこれを受け継いでいる。あらゆる分野に国家が関わっていくべきだと考えているようであるが、それを実践していく安倍の考える国家とは「個人の自由を担保しているのは国家である」、というものである。そして、そこには、国家の最高責任者は安倍であるという認識がある。確かに国民に選ばれた立法府の与党第1党の総裁は安倍であることは間違いなく、行政府の長であることも間違いではない。しかし、主権は国民にある(主権在民)ことを忘れてはいけない。国民国家に於いて、主権者は国民である。安倍が立憲主義を「専制主義的な王制時代の古色蒼然とした考え方」と位置づけるのも、彼の国家観に基づいている。「国民のため」よりも「国家のため」がいつの間にか軍靴が響くようになってしまわないか、私は危惧する。

追)
 本の内容とは離れるが、安倍さんは「強い日本」を望んでいるような気がしてならない。アナクロニズムではあるが、侮ってはいけない。世界の国を見るとロシアや中国だけではなく、米国や英国、ハンガリー、スペイン、ギリシャ、あるいはフランスやドイツ、ベルギーなどだって「強い○○国」を目指している(そのような人の擡頭が目立つ)。左翼政権が、ハンガリーのように右にぶれる場合もあるし、ギリシャのようにより左にぶれる場合もある。ポピュリズムという名の右寄りの主張が世界を席巻しつつあるような気もする。「力」と「力」のぶつかり合いは避けたい。安倍さんが、日本には「力」があると勘違いして突出する事は何としてでも避けたい。2016年は正念場だ。参議院議員選挙、場合によっては改憲の是非と問う国民投票もある。