2016年2月12日金曜日

石田衣良著「水を抱く」

 ある連載評論が読みたくて、新潮社の小冊子「波」を、ここ数年定期購読している。
 その中で、この小説について、著者と村山由佳とが対談していた。PR誌みたいな物なので、エロい描写について、つまみ食いしていた。エロい描写とは、男性に読みたいと思わせる描写である。
 スポーツジムの帰りに本屋に立ち寄ると、石田衣良史上もっとも危険でもっとも淫らな純愛小説。>、このような帯が付いた新刊の文庫本の重なっていた。
 私は、石田衣良は芥川賞作家だが、受賞後エンターテイナーに変わった、と思っていたのだが、ネットで調べると、彼は直木賞作家である。もともとエンターテイナーならストーリーの作り方が大胆であるというのに納得できる。
 彼の作品としては、今まで「娼年」という、男娼になる大学生の話しか読んでいない。題名に惹かれて、立ち読みし、文庫本を買って読んだと記憶しているのだが、本棚を探しても見当たらなかった。だからどんな内容だったかは思い出せない。(ある場所が分からなくなっているのは問題なので、いずれ持っている本や雑誌は適切に整理しなければならないのだが、なかなか手がつかない。少しずついらないものはブックオフに持っていってるのだが、売った記録もないので、未だどこかに埋もれているのだろう)
(閑話休題)Amazonの商品の説明には、以下のように書かれている。
 「恋愛にも大学生活にも退屈し、うつろな毎日を過ごしていたリョウ、二十歳。だが、バイト先のバーにあらわれた、会員制ボーイズクラブのオーナー・御堂静香から誘われ、とまどいながらも「娼夫」の仕事をはじめる。やがてリョウは、さまざまな女性のなかにひそむ、欲望の不思議に魅せられていく。いくつものベッドで過ごした、ひと夏の光と影を鮮烈に描きだす、長編恋愛小説。」
 そう、立ち読みで見た大胆な描写に惹かれて購入したのだが、実は最後は綺麗な恋愛小説になっていた、と記憶している。著者の意図するところは、エロなのか純愛なのか分からないが、その時は結局、”なあんだ”、というような気分で終わった、と記憶している。
 「水を抱く」は、彼の作品史上”もっとも淫ら”であるという。この時点で私は”純愛小説”という言葉を見落としている。
 この話しのストーリーを説明しても仕方ない。Amazonの商品の説明を引用する。
 「初対面で彼女は、ぼくの頬をなめた。29歳の営業マン・伊藤俊也は、ネットで知り合った「ナギ」と会う。5歳年上のナギは、奔放で謎めいた女性だった。雑居ビルの非常階段で、秘密のクラブで、デパートのトイレで、過激な行為を共にするが、決して俊也と寝ようとはしない。だがある日、ナギと別れろと差出人不明の手紙が届き……。石田衣良史上もっとも危険でもっとも淫らな純愛小説。」
 ノーマルであったはずの俊也だが、次第にナギの魅力に溺れていく。俊也は高額な医療検査機器を売っている営業マンで、クライアントとなる島波修二郎に取り入るが、彼も色情狂。島波は俊也を自分に似ているという、ナギと島波は、色情狂という点では似ているが、性格は似ているようで似ていない。ナギに溺れる俊也、俊也を自分のプレイに参加させ、最後にナギとセックスする島波。過激な行為が描かれ、途中、読むのも嫌になるが、余り詳しく(しつこく)描かれていないので、何とか最後まで読み通せた。
 ストーリーの詳細を書くとネタバレになってしまうので、これから読む人の意欲の妨げになるだろう。
 しかし、どうしても書きたいことがある。「娼年」と同じように、これは淫らな行為を表現しているものではなさそうである、という事だ。いや、それで読者を増やすのも狙いかも知れない。しかし、著者は、ノーマル人でもアブノーマル人でも持っている本質(?)は変わらないのではないか。もっとはっきり言えば、人間が子孫を増やすという事からセックスという行為を解放した時に、アブノーマルな行為が生じるのは分かりきった事であり、ノーマルとの違いは、人間の興味の対象として何に向かうかに依るだけだと見ているのではないだろうか?
 ここまで書いてきて、私は自分が考えた事とちょっと違う事を書いている事に気がついた。そう、「誰でもアブノーマルな部分を抱えていて、何かの拍子にそちら側に振れる事があるのではないか。つまり、ノーマルな人間と思っていた人が、いつアブノーマルになっても不思議ではない」、と著者は言いたいのではないだろうか?
昼はノーマル、夜はアブノーマル。あるいは、昔はノーマル、今はアブノーマル。ノーマルとアブノーマルはいつでも入れ替わる。ナギは、島波はどうしてアブノーマルになったのか?俊也は、なぜナギに惹かれたのか?
 最後は帯に書かれていたように、純愛小説になって、今回も胸の高まりを沈められてしまう。

 そして、もう一つ書きたい事がある。3.11をエンタテイメントの道具に使わないで欲しい、という事だ。同じ体験をしても、悲しみは、心の痛みは人それぞれだから、どのように書いても良い、と著者は思っているかもしれないが、だからこそ、特別なカースのために3.11を道具にしないで欲しいのだ。ハンドルネームが、「ナギ」なんて、洒落でしょうね!?おまけにクライアントの名前が「島波」なんて。