2016年6月27日月曜日

新倉裕史著「横須賀、基地の街を歩きつづけて」

 歴史は記録と伝承(口承)によって作られる。
 しかし、戦後の歴史の多くは、高度成長やバブル経済に依って右肩上がりで来た社会情勢の中で、記録されることなく、あるいは語られることなく、現在まで来ているのが実情であるように思える。
 戦後70年経った今、当時を知る人たちが徐々に亡くなりつつある。この本は、そういう時期にあって、記録、伝承の大切さを教えてくれる。そして横須賀に住む人たちでさえ知らない歴史を伝えてくれる。例えば、以下のような事だ。

・いつの頃だろうか、「ソレイユの丘」なるレジャー施設が宣伝されるようになった。昨年、孫と一緒に遊びに行って、何と広い所だろうと思ったが、そんな広い土地がどのように確保されたのだろうとは、考えもしなかった。そこが、実は、かつて農地であり、戦前は旧日本軍が特攻隊用の滑走路を作り、戦後は米軍(進駐軍)に依って強引に取り上げられ、「長井ハイツ」と呼ばれる米軍住宅が建てられた事などは知るよしもなかった。そこ長井で、1946年から起きた農民たちの反対運動が、横須賀初の反基地運動である。(土地は1985年に日本に返還)

・小原台という地名には、浦賀に住んでいたこともあり、多少、馴染みがある。防衛大学校が建つ土地も小原台である。そこに、デッカー基地司令官の指示でゴルフ場が建設されようとしたことがあり、1948年に開拓農民に依って反対運動が起こった。やがて、ゴルフ場が海軍施設(ラジオステーション:無線施設)、そして保安大学(現防衛大学校)用地に変わっていく。農民の反対も虚しく、1956年、久里浜より保安大学が移転された。(防衛大学校の前身が、久里浜にあったという事を、この本で初めて知りました)

・朝鮮戦争をきっかけに、1951年1月、米軍は東京湾湾口に対潜水艦施設の防潜網を秘密裏に設置した(防潜網は佐世保にも設置された)。北朝鮮海軍の潜水艦の東京湾潜入対策という。しかし、それにより漁獲高が大幅に減り、困った漁民が、防潜網撤去、補償要求の運動を起こした。1955年4月に防潜網は撤去されたものの、大した補償金は払われなかった。

・1945年9月、横須賀市は市の新しい方向を決めるために更正対策委員会を設置し、旧軍施設の転用と港湾整備による産業の振興を要項とする5ヵ年計画を発表した。その中に水産講習所(1949年から水産大学)の誘致があった。1947年5月、水産講習所は越中島から久里浜(海軍通信学校跡地)に移転してきたが、1950年の朝鮮戦争勃発とともに、進駐軍に依って引き渡された建物などを再び接収されてしまう。更に警察予備隊の発足とともに、進出の話があり、学生たちは反対したが、どうすることもできず1、954年9月にはその施設の多くを品川校舎に移転した。わずか7年で久里浜時代の幕が閉じられた(戦後に青山学院専門部、日本大学農学部の一部が横須賀に在った、という事をご存じでしょうか?それぞれ1950年、1951年に東京に移転してしまいましたが)。

・朝鮮戦争勃発の翌日より、逗子(1943年4月に横須賀に編入、1950年7月に分離)の池子の米軍弾薬庫から武器の輸送が開始された。朝鮮人数十名が職業安定所前で抗議、座り込みを行い、逮捕される。

・「旧軍港市転換法(軍転法)」をご存じでしょうか?私も良くは知りませんでした。街の散歩の折、不入斗運動公園にて、軍転法施行30年を記念して建設された「軍転記念の塔」を見つけ、説明を読んだときにはピンと来なかったのですが、この本で詳細を知りました。「軍転法」とは基地の町を平和産業港湾都市に作り替えるため、1950年に国の必要な支援を定めた法律です。その法律の是非を問うために、対象である旧軍港4市(呉、佐世保、舞鶴、横須賀)で憲法95条が求める住民投票が行われ、賛成多数(横須賀では87%の賛成)で成立しました。
「軍転法」の骨子は旧軍港市が平和産業港湾都市に転換するために必要と認めた場合には、国は旧軍用地を譲り渡さなければならないというものです。「軍転法」にはモデルがありました。「広島平和記念都市建設法」「長崎国際文化都市建設法」で、いずれも憲法95条に則った特別法であり、3法は市民自らが平和の都市をつくり、平和日本実現の理想達成に寄与することを目指しています。しかし、不幸なことに「軍転法」公布の3日前に朝鮮戦争が始まり、旧軍財産の払い下げを受けた民間企業が、米軍のために兵器を供給するという皮肉なことが起きます。以降、横須賀では旧軍用地の約33%が自衛隊と米軍による軍事使用になっています。また、「軍港」や「基地」といったイメージがつきまとっています。平和都市を目指したのにも拘わらず、観光資源が「海軍カレー」や「ネイビーバーガー」、「チェリーチーズケーキ」、「戦艦三笠」、「軍港めぐり」、「どぶ板通り」など、旧軍や自衛隊、米軍に依拠したものが殆どというのは、いかがなものでしょうか?私は疑問に思います。

・2004年10月31日、「ヨコスカ平和船団」の”おむすび丸”(ヨット)が、軍港内で原子力空母の母港化反対のプラカードを掲げてデモをしているときに、米軍警備艇がわざと急カーブを切ってその前を高速で横切りました。そのせいで、ヨットが大きく揺れ、マストを支えるワイヤーが切れました。この米軍の妨害行為は違法行為だということで抗議したところ、米軍が素直に100%の過失責任を認め謝罪し、賠償しました(過去には例がない)。なぜ、そうなったかというと、陸海ともに地位協定によって米軍に提供されているが、海については港湾法があり、許可を得れば自由に航行できるからです。この時は海上保安庁に届け出が出ていました。そもそも、港湾法は、戦前、国家の管理に置かれていた港湾が軍港として使われた反省から、戦後、その管理を地方自治体にゆだねた画期的な法律です。ですから、この時のデモは海上保安庁に監視され、守られていたのです。(*沖縄県知事による、辺野古の海の埋め立て工事差し止めも、この法律によるものだと今になって分かりました)

 日本のあちこちに、米軍基地が存在しているが、沖縄の次に多いのは神奈川県である。中でも横須賀には、東はハワイから西はアフリカ喜望峰まで、インド洋のほとんどと太平洋の3分の2をカバーする第7艦隊の司令部がある。そのほか第5空母群司令部、第7艦隊潜水艦隊司令部、第15駆逐艦隊司令部、在日米海軍司令部、米海軍横須賀基地艦船修理部、在日米海軍補給部、横須賀海軍病院などが配置されている。また、横須賀基地の最大の特徴は、米海軍の艦船の母港となっていることである。原子力空母ロナルド・レーガン、戦闘揚陸指揮艦ブルーリッジ、11隻のイージス艦が前進配備されている世界最大の海外母港なのです(原子力空母の海外母港は世界でただ一つ横須賀だけ)。

 著者らは、そんな横須賀で1976年2月から40年間、1回も休まず月例デモを行っている。頭が下がる思いである。