2016年8月19日金曜日

多和田葉子の連作小説:ベルリンを舞台に(「新潮」連載)#2

連作6:プーシキン並木通り(2015年10月号)
郊外に佇む戦争の記憶。言葉で描く伯林地図>
 私が生まれた時は終戦からまだ15年しか経っていなかった。もし戦争中に生まれてしまったら爆弾より憲兵の方が恐いという。かつて東と西を分断する線が近くに走っていた公園を歩く。この公園は戦死した赤軍兵士たちを弔ったもので、前方からカーキ色の軍服を着た兵隊たちが来る。憲兵だと思ったらアメリカ兵のかたまりである。公園には巨大なロシア兵の像が建っており、ナチスドイツからベルリンを救ったのがソ連であるのを誇示している。公園の左右には12枚の巨大な絵本があり、私はそのレリーフから様々な物語を想起する。

連作7:リヒャルト・ワグナー通り(2016年1月号)
 私はあの人とオペラ座の前で待ち合わせている。オペラ座の近くで見かけた人びとの物語を勝手に考え出す。

連作8:コルヴィッツ通り(2016年4月号)
街路から出発し時空を経巡るベルリン遊歩譚>
 コルヴィッツ通りを歩いてきた私は公園に向かう。そこには一人ベンチにすわって額に右手を当て、町の様子を眺めている老女がいた。そこから、次男を戦争に行かせ、戦死させてしまった、という物語を作り出す。

連作9:トゥホルスキー通り(2016年7月号)
ベルリンの樹木は何語で立っているんだろう>
 いつもながらに、彼女の作には個人の尊厳、文化の相違、異邦人としての暮らしが表されている。そして、この作には孤独と回顧、政治という今までにはないテーマが取り上げられている。
 小説は論文とは違って、一方的な主張で読者を説き伏せるものではない。だから、おもてだって政治が取り上げられることは少なく、ましてや多和田の作品では(この連作を除いて)読んだ記憶はない。しかし、この作品では極右党の女性代表の話の中で、原発や女性問題、移民問題の話が出てくる。今、世界(社会)の秩序は変わりつつあり、だから、このような表現をせざるを得なくなってきているということだろう。まことに残念である。


 「あの人」は、未だ出てこない。いったい、どんな人なのだろう。