今更言うのもおかしいが、多和田の作品を読むと、いつも言語について考えさせられる(と、いってもそんなに真剣に考えたことはないが)。その理由が、ほとんどの作品の主題が言語についてであり、仮に言葉が主題でなくても、いかにコミュニケーションをとるかについてである。それは、人間対人間でない場合もある。
この章では、Hirukoがアルルまで行って、同じ言語を発すると思われるSusanooに会って、話しをする場面で費やされる。話しをする、と言っても、何故かSusanooは言葉を発しない。声が出ないのか、言葉を見つけられないのか、しゃべるのが嫌なのか、分からない。ただ、ナヌークの発した、「ふるさと、PRセンター、ロボット、発電、造船」という単語の並びに反応する。
言語以外でもコミュニケーションはとれるが、人間にとって、言語はもっとも手軽なツールだ。中でも母語は。
多和田のように多言語を操られる人間は、そう多くはない。もちろん、西欧人では意外に多いのだが。理由は簡単だ。それぞれの言語のルーツが同じだったりして、単語や文法が似ているからだ。日本語は特殊である。言葉の並びが英語などの西欧の言語と異なる。韓国語(朝鮮語)やモンゴル語と同じではるが。だから、HirukoはSusanooと話したいのだ、もちろん、出身の島の動向が知りたいからだが。
Susanooが言葉を発しないのは、何故か。そして、この章の最後に現れた、北欧風の四十半ば、と思われる女性は、その理由を知っているのだろうか。
次号がいよいよ最終章らしい。