2019年10月7日月曜日

第161回(令和元年上半期)芥川賞受賞作 今村夏子「むらさきのスカートの女(おんな)」

 芥川賞の選考基準というものがどうなっているのかは分からないが、時々、何故か読んでいて楽しい作品が選ばれる時がある。今回の受賞作、「むらさきのスカートの女」は、そんな小説である。
 私は、比喩や暗喩、寓話の理解に乏しい。小説は論文と違い、読者がいかように理解しても良い、というようなことをどこかで読んだが、作者はこの小説で何を言いたかったのだろうか?
 非正規で働いている女性たちのライフスタイルなのか、精神状況なのか。一度、辞めさせられると次の仕事はなかなか見つからない。働いていても、いつ辞めさせられるかもしれない。辞めさせられないように上司に媚を売る。仲間の行状をチェックし、隙あらば脚を引っ張れるのではないかと思ったりする。

 「むらさきのスカートの女」と「黄色いカーディガンの女」は、同一人物なのか?話はすべて「カーディガン」の妄想なのか?「むらさき」は存在しなかったのか?所長と「むらさき」の不倫もなかったのか?どのように考えても勝手なのだ。

 しかし、何故、この作品が選ばれたのだろうか?選考委員の選評からは、他に該当するものがなかったと読める。
 
 それにしても年々歳々テーマも卑近になり、文章も軽くなっている。今回で選考委員を退く高樹のぶ子が以下のようなことを書いている。
「社会の停滞はまた、作家の五感も弱らせました。表現とは自分が外から感じたものを、また外に出す作業だと思っていたのですが、心を刺激するものが少なくなり、”受感”が難しい時代になった。だからなのか、リアルな体験を元にするのではなく、自分の頭で出すタイプの小説が多くなったように思います。芥川賞全体の流れとしては、個人の内部に根ざしているものを描く作品が増えてきました。」

 だから、これは致し方ないことなのだろうか?もっと重厚な作品が出ることを期待したい。