2015年7月20日月曜日

多和田葉子の連作小説:ベルリンを舞台に(「新潮」連載)

 多和田葉子が文芸雑誌「新潮」に連載している連作小説を継続して読んでいる。
 昔は雑誌も単行本も文庫もすべて買って読んでいたのだが、今は保管スペースや費用の問題もあり、市の図書館で借りる事が多い。この連作も図書館から借りた雑誌で読んでいる。
 題材はベルリンの街。最近、彼女の小説は言葉遊びが過ぎたり、凝ったテーマを無理矢理探してきて作ったような作品が多かったが、これは従来にも増して”爽やかな”作品である。
 連作も未だ5作目なので本当の姿は分からないが、ベルリンに実在する通りや広場を闊歩する主人公の印象や感想が何ともいえず爽やかである。一緒に散歩しているような気分にさせられる。
 いつもながらの欧州生まれではない異邦人の辛口批評と異邦人への眼差しは変わらないが、言葉遊びは少し控えめである。
 ”あの人”、という言葉が時々出てくる。しかしその人は未だ顔を見せていない。いつになったらどんな顔を見せるのだろうか楽しみである。
 皆さんにも一読をお勧めする。

以下は、各連作の題名、掲載された雑誌の目次に書かれたコメントである。
連作1:カント通り(2014年6月号)
連作2:カール・マルクス通(2014年9月号)
    あの人を待ちながらベルリンを歩けば、物が言を呼び、言が思いを招く。
    魅惑の都市小説。
連作3:マルティン・ルター通(2014年12月号)
    都会の喧噪とは無縁の通りも一つの宇宙。ベルリンの五感を揺さぶり、
    歴史を囁く。
連作4:レネー・シンテニス広場(2015年4月号)
    郵便局、ジャマイカの旗、彫刻家ーー言葉をイメージが豊かに織りなす
    都市遊歩。
連作5:ローザ・ルクセンブルク通り(2015年7月号)
    都市が記憶する歴史屁の、めくるめく遊歩。

2015年7月17日金曜日

金原ひとみ作「軽薄」(新潮2015年7月号掲載)

 原稿用紙400枚(126ページ)一挙掲載、金原ひとみ、久しぶりの力作である。
 英国帰りで年上の夫との間に男の子がいる30歳の主人公(カナ)は、建築を専攻している米国帰りの19歳の甥(弘斗)に夫が持っている建築の本を届けたことから思いもかけず(禁断の)関係を結んでしまう。
 カナは、若い時に恋人を裏切ったことからストーカー被害にあい、その男によって背中を刺された過去を持っている。その時から、彼女は人に対して特別な感情を持たなくなってしまった。弘斗に対しても突き詰めて考えれば、セックスでのつながりであると認識している。しかも彼は米国滞在中に暴力事件を起こしていた。その事件の真相を知り、一時は別れることを考えるが、知人のパーティでの事件をきっかけに彼と共に歩もうと決心する。その理由は、恋人を裏切ったという過去を繰り返さないために、彼との関係を自分から壊すべきではないと思うのだ。
 これは第三者を排除した二人の関係を大事に思う愛の物語のようではあるが、決してそうではない。カナが弘斗の父に語る次のような言葉が証明している。
 「(前略)何でもあり楽しきゃいいで快楽主義に甘んじている人間より、守るべき倫理を持っている人間の方が、人として魅力的じゃないでしょうか」
 「それは何を守っているかによるでしょう」
 「もちろん。でも、彼の倫理は個人的な美意識や価値観に則っているものだと思います。彼は個人的に彼女と付き合い、二人の価値観に則って関係を築き上げ最後は暴力に訴えた。彼らの関係を知らずに、彼のとった行動だけを見て、彼を信用出来なくなったと喚くのはお門違い難じゃないかと。(後略)」
 つまり関係性と言うものは、お互いの倫理観に則っているのであって、それを破るのはルール違反だと言いたいのだろう。しかし、この考えは世界を二人だけのものと見ていて、外に開いてはいない。とりわけ性愛に基づいている場合、二人以外の世界をどんなに無視しても、必ず侵略してきてほころびが出る。その時、二人の関係は必ず一方の裏切りという形で現れるものではないだろうか?

 金原ひとみの作家としての力量は素晴らしいと思うのだが、この性愛に敏感な女性特有の論理は、一見、普遍的な論理の様ではあるが、個人的な、外に開かれていない、感性に寄りかかっっている理屈、だと私は感じる。


 この作品は、エピソードが重要なのではない。「蛇にピアス」の様に映画化されるだけのエピソードを連ねているが、全体を貫く主題がある。エンタテイメントに終わらない作品というものは、そういうもののような気がする。