2015年9月20日日曜日

川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」(新潮2015年9月号掲載)

 240枚の中編である。
(目次には次のように要約されている)
(知ってしまったお父さんの秘密。それはわたしに関わりのある秘密。襲いかかる過去と対峙する少女は、少年と二人だけの冒険に出る。)

 パソコンを使って6年の間に社会で起きた出来事をまとめるという授業の後、班の仲間がみんな先に本当の教室に戻ってしまったので、一人残された小学6年の主人公通称ヘガティが画面に見たものは、映画評論家の父親には離婚経験があり、元の妻との間に女の子をもうけていたというもの。その日から彼女の生活が変わる。自分と亡くなった母、そして父の関係の中に、半分血のつながった姉が入り込んでくる。彼女にとっては自我が目覚める時期に当たったのだろうか?その姉がどんな風なのか見たくなり、父のスマホのアドレス帳から元の妻の住所を盗み見て、友達の麦くんと出かけて行く。それからどんな事が起こるのかは読んでのお楽しみである。
 姉に会って満足し、父と”和解”したような感じになるのだが、本当の事は麦くんや父が説明したような事なのかは分からない。いじわるく大人の感覚で思うならば、更に何かがあっても不思議ではない。
 次のページを見たいと思わせる筆力は相も変わらず凄いと思う反面、ストーリーとテーマはどこにでもありそうで平凡である。これまでの川上未映子の作品よりは少し劣ると感じた。


 しかし、この題名は誰が考えたのだろうか?どういう意味なのだろうか?食べ物の苺ジャムから苺を引いてしまえば何も残らない(?)。字面の上ではジャムが残る。英語のjam(名詞)ならば、食べ物のジャムだけではなく、混雑、窮地、苦境、紙づまり、ピンチという意味がある(英辞郎より)。本当はどういう事を意味したのだろうか?

2015年9月4日金曜日

ジョン・ハーシー著「ヒロシマ(増補版)」

 NHKのドキュメンタリー番組(キャノン・ハーシー”ヒロシマ”への旅~なぜ祖父は語らなかったのか~)の宣伝でこの本を知った。

 著者ジョン・ハーシーは「アダモの鐘」(1944年出版)で1945年のピュリッツァ賞(小説部門)を受賞した、タイムやライフ、ニューヨーカーで活躍した記者である。
 彼は従軍記者として1946年5月に広島を訪れ、1946年8月31日発行のニューヨーカーにこの著作を載せた。全誌を一編の作品で埋めたのはこの雑誌としては初めての事だったという。発売一日で30万部を売り尽くし、各地の大新聞は連日この作品を連載したという。
 この作品は小説ではない。6人の被爆者の行動を追ったノンフィクション(ドキュメンタリー)である。彼らはどのようにして被爆したのか、またその後、どのように行動したのか。数日後、数カ月後どうなったのか。
 その無駄のない文章や内容が私の気持ちを引きつけて、それからどうしたのかどうしたのかと、次のページをめくる事を催促する。そんな興味深い作品である。

 佐々木とし子さんは、東洋製缶の人事課員で事務室の自分の席に座っていた。藤井正和博士は、自分の病院の縁側で新聞を読もうとしていた。仕立て屋の後家である中村初代さんは、台所の窓際で隣家の取り壊しを眺めていた。クラインゾルゲ神父は、宣教師館の3階の簡易ベットに横になりイエズス会の雑誌を読んでいた。赤十字病院の外科医である佐々木輝文さんは、梅毒診断用の血液標本を持って病院の廊下を歩いていた。広島メソジスト教会の牧師の谷本清さんは、市の西郊外の己斐(こい)の豪家の門前で疎開荷物を下ろしかけていた。
 選ばれた人たちは女性が2人、男性が4人。経歴も仕事もまちまちであるが、男性全てが、医者、神父、牧師であり、いわゆる人を助けるべき役割を担っている人であるのは偶然ではないだろう。この4人は、原爆投下の当日から人助けのために奔走する。その活躍には目を見張るものがある。また、女性2人も時間が経つとともに被爆者のために活躍する。これは、たまたまなのだろうか。いや、多くの被爆者が、自分のできる範囲で何とか人のために役に立ちたいと思い行動した証左ではないだろうか。
 この作品の良い所は、被爆者がどのくらいであったか、どの範囲に及んだかなどの、いわゆる大きな記録ではない所である。被爆後、個人個人がどのように活動し、暮してきたかという、小さな記録であるという所である。だから、興味深く読み進めるのだと思う。

 ハーシーは1985年4月に再び広島を訪れ、6人のその後を取材した。その成果はニューヨーカー7月15日号に一括掲載された(この本には、第5章「ヒロシマ その後」として載せられている)。
 増補版訳者である明田川融氏は、あとがきで次のように書いている。
「中村さんは平穏な家庭に幸福を見いだしていった。佐々木輝文博士は臨死体験をしたことにより、その後の人生を高齢者医療に捧げる。ウィリヘルム・クラインゾルゲ神父は、遠慮の精神を実践しながら信仰と愛に生きる。佐々木とし子さんは、そのクラインゾルゲ神父に導かれてカトリックに入信し、孤児院や老人養護施設で奉仕する。さらに藤井正和博士は、原爆症を発症することもなく、医師として幸福な人生を送るかに見えたが、不慮の事故から不遇の死を遂げる。彼らの被爆後の四〇年の軌跡は、戦後日本に生きた多くの人々がたどった軌跡の象徴であり、その間に生じたさまざまな問題やそれとの葛藤、その間に失ったもの、あるいは失いつつあるものについて、私たちに静かに語りかけてこないではいない。」
 このように書かれると、彼らは被爆者ではあっても、他の国民と変わりないような生活を送ってきたように思えないではないが、決してそうではないと思う。やはり彼らは被爆者としての苦労を背負ってきたのではないかと思う。

 そして、この本の訳者でもある谷本清牧師は、路上伝道、流川(ながれがわ)教会復興運動、ピース・センターの創設、ケロイドを負った女性たちが整形手術を受けるための支援、原爆孤児に対してアメリカ人の里親が経済的援助をする精神養子縁組活動への支援、全米各地での反核講演行脚など多面に渡って活躍をしたが、原水協運動が始まった時点での日本不在や政治的な運動への拒否、米国の支援者との力関係から、残念ながら日本における原爆反対運動の中心的な活動家とはなり得なかった。しかし、彼の起こした活動が無意味なものとは私には思えない。草の根的な活動が大きな活動を呼び起こしたと言えるのではないだろうか。