2017年6月25日日曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第七回)(「群像」2017年6月号掲載)

<第七回あらすじ>
 クヌートは母親にノルウェーのオスロ行きを引き止められる。病気だ、と言う。外に出られない、と言う。知らない人と話す気になれない、と言う。夜眠れない、と言う。よくよく聞いてみると、一種の慈善事業として生活費を出してやっているエスキモーの医学生がいなくなってしまった、と言う。<<ここでは示されないが、この留学生というのはテンゾのことではないか?>>
 結局、母親はオスローに、昔の友達に会いに行くことになる。しかし、クヌートはHirukoを紹介するのが嫌でオスローに行くのを取りやめる。一方、オスローではアルルに行くと、という話しが進んでいる。


 モネと浮世絵の関係、富士山とノルウェーのコルサース山との関係など、今回も異文化の衝突が描かれる。アルルに行けば、また新しい広がりが出る事が期待される。

2017年6月3日土曜日

中原清一郎著「消えたダークマン」(文藝2017年夏号掲載)

 中原清一郎とは学生時代に「北帰行」で文藝賞を受賞した外岡秀俊(そとおかひでとし)のペンネームである。新人ではあるが、文章とストーリーのうまさに感心し、完成度の高さにびっくりしたことを覚えている。その後、朝日新聞に入社し、記者として編集局長まで上り詰めるとともに、良質な記事やドキュメンタリー(風エッセイ?)を出してきた。だから、3年前に、「脳間海馬移植」によって末期ガンになった男が、女と入れ替わるというテーマの「カノン」(文藝2014年春号掲載)を著した時、期待を持って読んだ。新聞や文芸雑誌での評判は悪くなかった。しかし、私は正直、がっかりしたテーマのみが先行し、その出来は、「北帰行」やドキュメンタリーのレベルからはほど遠かったからだ。
 今回のテーマは、コソボ紛争やイラクのクウェート侵攻という記者時代の経験や知識を生かしたものであり、期待が持てた。「ダークマン」は、アナログカメラ時代のフィルムの現像処理のプロ、「暗室マン」の和製英語だ。今は、カメラはデジタル化され、ダークマンが消えたように、「戦争から暗部が拭い去られ、すべての位置に焦点が合ったパンフォーカスの絵葉書写真のように、妙に鮮明で人工的な風景が、戦場には広がっている」
 戦場を描くことで生き生きとした筆致になっている。だから、すらすらと澱みなく、読み進む。
 しかし、これは小説なのだろうか?小説は論文とは違って、そこに書かれていることへの正しい理解を求めてはいない。そこには、おやっ、と思うようなことや曖昧な事が書かれていなければならない。なぜなら、一元的な理解を求めずに、読者それぞれの読み方を期待しているからだ。
 この小説は、どうだろうか?著者の知性を前面に打ち出した小説になっていると感じるのは私だけだろうか?。私が若い時に親しんだ多くの小説に近いと思う。今は、失われ去ろうとしている形だ。村上春樹が多くの人に読まれるのは、彼独特のいかようにも理解出来るワールドがあるからであり、いまだもって漱石が読まれるのも同じような理由だろう。外岡という類まれなる小説家は消え去ってしまったのだろうか?私はそうは思わない。次の作品に期待したい。