2018年4月7日土曜日

「小説は具体性の積み重ね」(朝日新聞2018年3月30日朝刊・文芸時評・純文学/磯崎憲一郎)

 磯崎は、冒頭、下記のように書いていた。とても良い表現(内容)だったので、紹介したい。

「何をどう書いても構わない、一切の定義付けや決まり事を拒むのが小説という言語表現ではあるのだが、しかし多くの書き手が日々実作を続ける中で感じる、小説を小説たらしめている第一の理由とは、具体性をもって描かれる、ということではないか。登場人物の動き、会話、出来事、事物や風景の描写、さらには過去の回想や意識の流れまで含めた、それら具体性の幾重もの積み上げによってしか表し得ない何かを伝えるために、書き手は評論や随筆といった他の散文形式ではなく、小説という方法を選び、書き始めるのだと思う。」

2018年4月5日木曜日

生誕120年 再発見・井伏鱒二(すばる2018年3月号)

 井伏鱒二という作家の作品を初めて読んだのは、中学校(?)の教科書に載っていた「屋根の上のスワン」であった(人によっては、教科書に載っていたのが「山椒魚」という場合もあるようだ)。
 その後、高校生になり市の図書館から夜ふけと梅の花(表紙がハードな新潮文庫)を借り(1971年に、私は「山椒魚」という掲載作品が同じで本の題名だけが異なると思われた新潮文庫を購入)、「山椒魚」を含むいくつかの短編を読んだ<それ以降、短編というものが好きになり、数多くの作家の短編を好んで読んだ>。
 井伏の作品は、私の好みではあったが、筑摩書房から刊行された日本短篇文学全集36で幾つかの短編を読み足しただけと思っていたが、つい今しがた本棚を見ると、「さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記」(新潮文庫)「荻窪風土記」(新潮文庫)があった。そして、自分の生地にある土地の名前がついた「武州鉢形城」という単行本も購入し読んだこと、映画を見るために(見た後に?)、図書館で「黒い雨」を借りて読んだことを思い出した。

 何が自分に合っているのか今は説明できないが、興味は継続している。だから、文芸雑誌「すばる」3月号の新聞広告で特集「生誕120年再発見・井伏鱒二」の活字を見てすぐに、市の図書館に貸し出し予約を入れた。
 11人の井伏に関するエッセイは大して面白くなかったが、野崎歓と堀江敏幸による「友釣りのエクリチュール」と題した対談は、示唆に富み興味深く読んだ。

 21ページにもわたる対談は、内容が濃く、まして十分にこなす能力のない自分が要約するのは難しく、詳しくは自ら手にとって読むことをお勧めするが、キーワードを拾うと以下のようになるだろうか。
・翻訳や原テクストを使った二次的な創作(生のままのテクストと、オモリを仕込んだテクストの二種類を上手に使い分けている)
・テクストに仕込まれたオモリというのは、そのへんに転がっている石や、釣り道具屋で買った鉛ではなく、自分をちぎったもの
・翻訳者であり、仲介者(一次資料として使ったものには真偽をめぐって迷宮入りするしかないような、正体を決めがたいテクストが非常に多い)
・完結しない物語(つねに、すでにあるものへのオマージュを捧げると同時に、自身の作品も次の人に手渡していく「開かれたテクスト」を目指していた)
・ぶれようのない世界が確立(戦前、戦中、戦後と見てあまり変わっていない)
・記憶力、耳の良さ、絵画的(全体の流れに資する表現を内的に見出す記憶のパターンは、絵画的と言っていい。本筋とは関係ない、しかし印象的な描写がすっと入ってくる。それが特徴である)
・血縁ではなく、運命だけで人と人とがつながっていく物語


 「すばる」誌上(2016年5月号~2017年9月号まで隔月連載)で井伏鱒二論を書いたという野崎と、日経新聞の「傍らにいた人」という連載エッセイの中で井伏を取り上げた(2017年3月18日及び25日付)という堀江のキャッチボールは、ファン同士のエールの交換とも言えなくもないが、澱みがなく読むものを倦きさせなかった。