B6版で763頁という大部な本である。
文芸雑誌「文學界」(文藝春秋社発行)に連載中で、江藤の死で中断した「幼年時代」を担当していた平山周吉という方が纏めた評伝である。つまり平山氏は最後の江藤淳担当であった人である。そして、仕事として江藤に会った最後の人になる。会ったのは江藤が亡くなった当日、死のわずか数時間前の事だったという。「幼年時代」連載第二回の原稿をもらっていた。
江藤淳は1999年(平成11年)7月21日午後7時半頃、鎌倉の自宅の湯船で左手を包丁で傷つけ、自ら「処決」して、この世から去った。享年66歳であった。
江藤が死んで20年が経った。その間、リーマンショックがあり、原発事故まで引き起こした東日本大震災があり、IT革命があり、新自由主義が定着し、貧富の差が劇的に増大した。今の世の中を見た時、江藤はどう思い、どう行動するのか知りたいものだが、それはもう叶わない。今生きていれば87、88歳。未だその可能性はあった。
このブログを読む人であっても、江藤淳を知らない人もいるだろう。一番目立った活躍をしたのは、昭和30年代から昭和40年代である。当時は、大江(健三郎)が文壇の先頭として注目されていた時代で、大江ー安部(公房)の時代とか、大江ー開高(健)の時代とか、大江ー江藤(淳)の時代とか言われたもので、その評論家の江藤である。
文字数が多いこともさることながら、内容も盛りだくさんで質も高い、この評伝の解説を書くことなどは、到底、私の手に負えるものではない。前置きが長くなったが、このブログでは、本を読み終わり、じっと考えた時に浮かんだイメージ(感想)を書くこととしたい。
その前に、また余分な話だが、私がなぜこの評伝を読んだかについて述べたい。一言で言えば評伝が好きだからである。評伝は、その人の生き方が語られているからである。時代時代で、生きる選択肢は変わるかも知れないが、一生を見てみれば、その差はそんなに大きいものとは思えない。自分で考えた、あるいは他人が考えた指針に沿って歩き始め、そして壁にぶち当たり、予期せぬ方向へ向かうも、必死に自ら手探りで道を探し、最後の地点まで辿り着く。得られた地点は、後悔があったとしても、その人が選んだ地点である。運が悪いとか、実力が及ばなかった事があったとしても、それがその人の最終地点である。その必死に自ら手探りで道を探して行く生き様に何かを読み取りたいので、私は評伝を読む。
江藤の代表作といえば、「(決定版)夏目漱石」、「作家は行動するー文体について」、そして「小林秀雄」、「成熟と喪失ー”母”の崩壊」、「漱石とその時代」、「一族再会」、「海は甦える」など数多くある。
ただ私は江藤の良き読者ではないだろう。一つの著作も読んでいない可能性さえある。本棚には、裏扉に” ’67.10.23仙台・古本屋にて”と書かれた中身が綺麗な単行本の「成熟と喪失」(初版発行ー昭和42年6月5日、再販発行ー昭和42年7月20日)が一冊ある。紐状のしおりが裏扉に挟んであるので、私の習慣から考えれば読んでいることになるが、読んだ記憶がまったくない。安岡章太郎の「海邊の光景」や小島信夫の「抱擁家族」、遠藤周作の「沈黙」、吉行淳之介の「星と月は天の穴」、庄野潤三の「夕べの雲」、「静物」など、いわゆる第三の新人作家の作品を対象にして論じているので興味を持ったのかも知れない。私は高校時代に庄野の作品などを好んで読んでいたからだ。
江藤が注目を浴びたのは、夏目漱石論であるが、大江健三郎や石原慎太郎などと「若い日本の会」を結成し、1960年の安保条約改定に反対を表明したことで一躍時の人となる。しかし、その後、徐々に保守に回帰していき、最後は戦前の日本を理想として活動していく。
江藤は、中学時代から頭脳明晰で、知性に溢れ、自ら恃むところ多く、次々と俊才と交わり、ある時は指導を仰ぎ、ある時は果敢に論戦し、そして対立し、離れて(あるいは離れられて)いく。例えば、主任教授(で詩人)の西脇順三郎、埴谷雄高、小林秀雄、大岡昇平、平野謙、本多秋五、花田清輝、大江健三郎、吉本隆明。自ら恃むところ多ければ、当然の事として孤立していく。寂しくはなかったろうが、(真の意味で)孤独であったろう。慰めは最愛の妻慶子と愛犬との生活であっただろうが、その慶子にでさえ満足できず愛人を作っている。二人は江藤の自死の半年ほど前に相次いで(一週間程度の間隔で)亡くなってしまっている。それが江藤の自死につながってくるのだろうが、直感では鬱になったのではないかと思われる。一方、小さいときから近くに感じていた死への誘いを考えれば、自死は必然であったとも思われる。幼き日の母の死、繰り返す結核、親友山川方夫の事故死。学生時代には自殺をはかっている(未遂)。
例えば、日比谷高校3年の時に提出した「行動特徴」の「安定感」という項目で、1年間の療養生活についての経験を語り、「ぼくは、自分の中にある「死」のことさえ考えさへすればいいことを知った。「死」は「生」の裏がわで育ちながら、「生」をいよいよ豊かにする陰影である。・・・「生」は、・・・黒い「死」の背景なしには成立しないものなのだ・・・ぼくはこう考えることによって、充実した安定の中にやすらぐことが出来る」と書いた時、例えば、私が愛して已まなかった金鶴泳の自殺について、「私は金氏が、「作家活動に挫折」して世を去った、などどいう俗説を少しも信じない。処女作のころから、金鶴泳氏の文学は、生と死とのあやうい均衡の上に成立する静かな諦念をにじませていた。おそらくこの均衡の針が、ほんの一目盛だけ死の方に傾いたのだったに相違ない。・・・」と書いた時、江藤の頭の中では死と生が背中合わせになっていたのだろうと思う。そして生がなくなり死が現れた。
上に、江藤は「徐々に保守に回帰していき」と書いたが、それは間違っているだろう。江藤は、早死にしなければ海軍大臣になっていただろう、祖父・江頭安太郎を尊敬し、いずれは外交官か官僚、学者などになり、国のために力を尽くしたいと小さい時から思っていたのだから、強い日本であった戦前を目指すのは当たり前であった。無条件降伏も新日本国憲法も安保条約も到底許せないものだったのだと思われる。江藤は徐々に政治にも近づき、佐藤栄作や福田赳夫と親交を厚くし、時にブレーンとし、時に特命大使として支えたことから、小渕恵三から文部大臣の打診を受ける。しかし、目前に迫る妻の死の前に断らざるを得なかった。これも運命だったのだろうか?妻が元気であればとか、愛人が元気であればとか、三島由紀夫が死ななかったらとか、いろいろの「ればたら」はあるだろうが、享年66歳、自死、というのが江藤の選んだ最終地点だったのである。
江藤淳ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/江藤淳
参考サイト:
週間読書人ウェブ 平山周吉×先崎彰容対談 歿後二〇年江藤淳
『江藤淳は甦える』(新潮社)刊行 「没後20年 江藤淳展」(神奈川近代文学館)開催