2020年5月1日金曜日

第162回(令和元年下半期)芥川賞受賞作 古川真人「背高泡立草」

 吉川家兄弟三人とその娘二人が、兄弟が育った島に本土から車で出掛け、実家の納屋の前に繁っている草を刈る、という特別なエピソードもない物語である。それでも何故か面白く読めた。
 ただ、方言を含んだ会話が五人の間を飛び交うのであるが、時に受け答えが食い違っていたり、また、その話の間に、満洲に渡ろうとする夫婦、捕鯨をする青年、戦後に日本から密出国しようとして島にたどり着く朝鮮人と思しき一団、親に言われてカヌーで海に出て島にたどり着く中学生の四つの物語が挟まっているが、兄弟たちとの繋がりが分からないと言う点でやや読みづらい。

 古川氏は4回目の候補で受賞したらしいが、選考委員たちは、連作風な小説であるという事を認識しているらしい。
 だから、吉田修一氏は「市井のファミリーヒストリーと見せかけて、その土地自体を物語る・・・」、山田詠美氏は「同じ場所に確実に存在する異なった時の流れを交錯させるのは、この作者の真骨頂だろう。・・・」、小川洋子氏は「場所はとある島の一点に留まりながら、大胆に時間をかき回すことで、海から逃れられない人生を背負わされた人々が立ち現れて来る。・・・」と述べる。
 たしかに、言われてみればその様に読める。しかし、だから何なのか、と私は思う。個人的な見解だが、小説には書かれる必然性があるべきであり、できるならば書く者にとっての必然性だけではなく、読む者にとっても必然性が感じられるべきではないかと思う。

 受賞後のインタビューでルーツや血縁のことを訊かれて古川氏は、「家族や親族って・・・目的や意味がよくわからない集まりが多いじゃないですか。でも、一見無意味に思えるその行為を続けることが、結果的に家族や親族を結びつけているんです。そういう類の集まりが一切無くなったら、それはもう、ただの書類上の関係にしか過ぎない。・・・」と言う。
 両親が亡くなり、だいぶ以前から親戚との集まりなどはなくなっている私には、古川氏の言う意味は理解しにくい。この国には古川氏の言う様な関係が地方に行けばまだ多く残っているのだろうが、また一方、無くなりつつあると言うことも強く感じる。
 
 宮本輝氏は、今回の選考で委員を退任するに当たって、以下の様に述べている。
 72歳、われわれと同世代の作家の熱い言葉が心に響く。

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