2020年7月29日水曜日

井波律子と高橋和巳と雑誌『対話』

 井波律子が今年の5月に亡くなった。私は中国文学についての素養もないし、好きでもないが、彼女の名前は知っていた。井波の名前を見るたびに高橋和巳を思い出していた。井波は和巳に教えを受けたことがあり、共著があると記憶していたからだ。
 共著としては、吉川幸次郎と小川環樹編集の中國詩人選集(岩波書店刊)13『王士禛』及び(あるいは)15『李商隠』(いずれも高橋和巳注)が考えられた。しかし、手元にある本を見ると、第一冊発行はそれぞれ昭和37年(1962年)、昭和33年(1958年)であり、井波は未だ大学には入っていなかった。
 井波は1944年生まれであり、和巳が大学を辞した1969年3月には博士課程であった。だから接点はあった。

 井波の著作に手掛かりはないかと、一般的な読み物である『中国文学の愉しき世界』(岩波書店、2002年刊)を当たると、「高橋和巳さんのこと」という一文があった。”はじめてお目にかかったのは、いまを去ること三十八年、一九六四年春のことである。わたしは京大文学部三回生として、中国文学を専攻するようになったばかりだった。”、とある。吉川研究室の新入生歓迎会の二次会の祇園のカフェに和巳がフラッと入って来たらしい。その後、井波が書いた「円地文子論」を読んだ和巳から、自宅に来るようにと誘われ、吹田の公営住宅を訪ね、たか子夫人も交えていろいろな話をし、楽しい時間を過ごした、という。
 その後、和巳は明大助教授として東京に行ってしまったが、吉川教授の定年退官に伴い、後任助教授として六七年秋に着任する。その折に、同人雑誌『対話』に誘われ、井波は参加したという。それならば、手持ちの雑誌『対話』で井波の名前を見つけ、頭に刻みつけたのかも知れなかったのかな、とも思った。女性の中国文学者などは、当時は珍しかったからだ。
 『対話』6号には、井波の「「文心雕龍」論」が載っていた。しかし、中国文学の素養がないので、私が読んだという形跡も記憶もない。7号のシンポジウムは「エロティシズムと文学」であり、井波も参加している。読んだ形跡はあるが、井波の発言は一回であり、印象に残るものではないと思われる。

 一方、手持ちの雑誌『國文學』第19巻第5号(昭和49年/1974年4月号)『特集 井上光晴と高橋和巳ー苦悩と告発の文学』には、井波が「高橋和巳と中国文学」を寄せていた。
 

 和巳の中国文学研究を、李商隠らを論じた個別作家論と六朝美文論などの総論的考察の二つの系統に分けることができるという。
 和巳が研究対象に選んだ文学者たちは、みな深く根源的なところで、どこか彼自身に似ているという。例えば、潘岳と江淹はその過剰な感傷性において、陸機と顔延之は何よりも論理を重視する観念性において、そして李商隠は、遂に現実をも文学視するにいたる、文学への過度の執着によって。
 和巳は「六朝美文論」の中で、美文の特質として、まず第一に<惜しみない個人の感情の強調>なる要素を挙げ、第二の特色として<顕著な装飾性>を、第三には<人間の総体的な論理と文章の定型的リズムの合体というもっとも優れた特質>を挙げているという。
 これらの研究が、自身の小説に固有な文体ー語り口、を発見し形成していくうえに、非常に大きな影響を与えたものと考えられるという。一方、和巳は同じ絶望を語るにしても、六朝美文と同様饒舌に比喩等の技法をほとんど乱用しながら、それとの逆の地点から、これでもかこれでもかと、醜悪さ・悲惨さ・むごたらしさといった負の要素を畳みかけていくことによって、そうした心的状態を強調しようとするのである、という。
 この後段で、井波は『憂鬱なる党派』、『日本の悪霊』、『悲の器』、『堕落』の文章をを具体的に論じている。そして、「潘岳論」、「江淹の文学」、「陸機の伝記と文学」を論じながら、和巳の中国文学研究が<論理>と<感傷>の間を行きつもどりつしていると述べる。また、陸機評価に士大夫の小説を目指した和巳の夢と抱負の投影をみてとることは容易であろうと書く。
 多分、私はこの一文を読み、井波と和巳の繋がりを感じ取ったのであろうと思われる。
(この一文は『文芸読本 高橋和巳』(1980年、河出書房新社刊)に転載されている)
 

 ちなみに、「中国文学の愉しき世界」に編まれている「高橋和巳さんのこと」は読んだ記憶がなかった。他の文章はどこかに書いたものらしいが、この文章のみ書き下ろしであるらしい。ならば、読んだことがなかったのは不思議ではない。

 書き忘れたが、井波はこの文の後段で、”お通夜には行けなかった、高橋さんが亡くなられたことを確認するのが怖かったからだ”、と言う。かくも井波の心の中には和巳が入り込んでいた。もちろん、当時、私を含めて多くの若者(学生たち)の心の中にも和巳は深く入り込んでいた。

2020年7月13日月曜日

金原ひとみ 著(初エッセイ)「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

 
 

 初めて読んだ金原ひとみの作品は、芥川賞を受賞し雑誌に掲載された「蛇にピアス」であった。綿谷りさの「蹴りたい背中」とのダブル受賞であったが、金原の作品に興味を持った。読んだときの印象は、もう覚えていない。その後、映画を観た時、かなりの衝撃を受けた。この作品の印象から、多作になるとは思えなかったが、その後、順調に作品を出している。むしろ、綿谷をはじめとした同年代の作家に比べれば、圧倒的に多い方だろう。
 今回、このエッセイを読んで、多作の理由が分かった。彼女にとって、生きづらい社会からの救いは書く事と恋愛だと言う。
 この作品が初めてのエッセイという。ウェブ連載だったからだろうが、同じようなイメージの内容が繰り返される。やっつけ仕事だったからかも知れない。この作品の中に、締切りに追われる彼女の姿が描かれている。
 内容は、友達との会食、といっても主に痛飲であり、会話は相手の愚痴で、主に不倫の話。そして、金原自身のこの社会での生き辛さが語られる。
 作家が書くエッセイの全てが実生活だと言えるのだろうか?虚もあるだろう。別に実でなくても面白ければ良いのだから。しかし、この作品は、ほとんど実のような気がする。彼女の小説よりも人間が表されているからだ。書いていないことはあるだろうが、嘘は書いていないような気がする。
 彼女の書く小説が好きでよく読むが、彼女の住んでいる世界には馴染めない。性や年齢の違いもあるが、自分を虐めすぎる性格にもよる。特にこのエッセイは、読んでいて辛かった。付箋を付けたところが、添付のように8カ所もあった。
 彼女には、自ら死なないで欲しいと思う。でも最後のページに、「この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。」、と書かれていたので安心した。しかし、その後に、「でも夫に殺されたいと願うことが増えた。」、と書かれているのには唖然とした。でも、このエッセイに書かれているように、小説と恋愛があれば、生き続けるだろう。

朝日新聞・読書好日:乖離の中に存在する自分