2020年10月27日火曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

 

 


 内田樹氏が9人の論客をまとめて作ったと思われる本である。

 反知性主義という事をそんなに多くの人が知っているとは思われない。かくいう私も言葉しか知らなかった。しかも、この本を読むまでは、知性が足りない人が陥る態度と間違った理解をしていた。


 反知性主義の定義は、人それぞれ違うだろうが、内田樹が書いたものを読むと理解しやすいだろう。内田は、時に具体例を引きながら下記のように定義している。


*反知性主義という事の理解のために、先駆者であるホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」を引用している。

 ”反知性主義は、思想に対しての無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。(中略)指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。


*反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。(中略)「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。


*知性というのは個人においてではなく、集団として発動するもの(この本では下線部分に傍点)だと私は思っている。知性は「集団的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。


*ホーフスタッターは反知性主義者の相貌を次のように描き出している。反知性主義の「スポークスマンは、概して無学でもなければ無教養でもない。むしろ、知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。(中略)自分たちが注目する世界の問題について、真剣かつ高邁な目的意識をもっている」


*反知性主義を決定づけるのは、その「広がりのなさ」「風通しの悪さ」「無時間性」だということである。(中略)反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。


 内田はまとめとして、以下のように書いている。

 私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。


 内田の小論を読んだ後の私の理解では、「知性的な人」とは他人の考えを真摯に聴き、自分の知的な枠組みをそのつど作り替えている人である。また、その「知性」は、同時代に影響を及ぼすだけではなく、過去を振り返って検証され、また未来において生かされるものであるだろう、ということである。


 この本が出版されたのが2015年であるせいかも知れないが、反知性主義者の代表として、平川、小田嶋両氏は元大阪市長の橋下徹氏を挙げている。

(尚、時間的な制約もあり、想田和弘氏、鷲田清一氏の小論は未読)






中村文則著「R帝国」


 以前より中村文則という作家に興味があった。近作「逃亡者」が評判になるに及び以前の作であるこの本を読む気になった。しかし、残念ながらまるで漫画(劇画)の(原作の)ようなシーンのつなぎ合わせで、文章に深みがなくストーリーもありきたりで、第一部を読んだ時点で読むのを止めた。第二部まで読めば違った感想になるかも知れないが、現時点ではそういった評価になった。評判の「逃亡者」に期待したい。

雑誌の書評評者:江南亜美子(週刊文春 2017.10.05号掲載)

 絶対権力の「党」が支配する国で、人々はどのようにふるまうのか

トランプ政権の誕生あたりからアメリカでは、オーウェルの『一九八四年』が再評価され、その機運は日本にも飛び火した。不可視の絶対君主〈ビッグ・ブラザー〉による徹底された情報統制と史実の改竄は、今日の日本の言論空間をどこかほうふつさせる。フィクションの力でもって、読む者に危機感をもたらすのがディストピア小説だとすれば、『R帝国』もその流れを汲む近未来SFだ。

 物語は島国の「R帝国」が開戦した日から始まる。絶対権力の「党」が支配するこの国では、国民は批判的な意見を表明するなり張り巡らされた集音装置により検挙され、しばしば謀反者は公開処刑される。人々は、高度な人工知能を搭載した「HP(エイチピー)」と呼ばれる端末から情報を得ており、その管理もまた「党」の得意とするところだ。

 戦争には自衛という大義名分が必要だが、この戦争は何かがおかしい――。二人の男が、政府の欺瞞と真の目的に気づく。一人は会社員の矢崎。もう一人は形骸化した野党の幹部議員の秘書である栗原だ。それぞれ、女性兵士アルファ、秘密組織のサキと出会うことで、巨大な相手に無謀な戦いを挑むはめになる。

 恐ろしいのは、二人の必死の奮闘をあざ笑うような「党」の余裕である。人々の行動原理や深層心理を知悉する彼らは、例えば人口の八割に及ぶ貧困層の不満が上でなく、最下層の移民に向くよう情報をコントロールする。団結ではなくあくまで分断へ。さらには薬物投与によってつらい過去の記憶を抹消した従順な市民としての第二の人生まで、提案してみせるのだ。矢崎は言う。「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」

 果たして、不都合な過去や真実を隠蔽する見せかけ上の安寧は、国民をどこに先導するのか。大義よりも「半径5メートルの幸福」に固執し、「真実」から目をそらし続ける大衆、その集団的な認知バイアスこそが、悪夢的な全体主義をさらに後押しするのだと、読者は気づかされるだろう。最も手ごわい敵は、結局人間の本能に組み込まれた、恐怖心と暴力性なのだ。

 本書はいわば、ヒーローなき戦争小説である。作中、『ルワンダ虐殺』や『沖縄戦』という架空の国の物語がネット上のバグとして現れるのだが、統治者の一人は「向こうの方が現実で、我々の方が現実じゃない可能性だってあるじゃないか」と言う。裏返せば、SFにみえる本書に現実が潜んでいるのかも。著者の警鐘にしばし耳を傾けられたし。