2022年5月31日火曜日

乗代雄介 著「皆のあらばしり」

 

 なかなか面白かった。淀みなく読めた。
 しかし、こんな設定があるんだろうか。男は下調べしていて、主人公である高校生を待っていたのだろう。そんな罠に主人公はハマってしまう。次第に謎の文書を手に入れるための共犯者のようになってしまう。
 設定やストーリーがどうであっても問題にはならない。余程ありえない事であれば別だが。そして論文ではないので、解釈は自由だ。無理にあれやこれや考える必要もなく、理屈抜きに、面白おかしく読んでもいい。もちろん、私などは高齢者になっても評論家のように深い読みができるわけではなく、上滑りな読みしかできない。
 知ることは楽しい。ましてや知識と知識がぶつかり合うのはスリリングとも言える。主人公と男の会話は読んでいて楽しい。それだけでこの作品には価値がある。
 まして、今の流れにあった作風であれば。今の流れはリズムある語り、小さな物語り、独特な書き方である。この作品は、これらをすべて持っている。時間があるなら、是非、お読みいただきたい。

朝⽇新聞 好書好日20220129日掲載
評者: 江南亜美子
 知識欲に突き動かされ、熱狂の時を過ごす一人の高校生の姿を通し、学ぶことの面白さを大いに喧伝(けんでん)してみせるのが本書である。
 栃木県にある皆川城址(じょうし)で、地元の高校の歴史研究部に所属するぼくは、大阪弁を喋(しゃべ)る30代とおぼしき男と出あう。歴史に造詣(ぞうけい)が深く、明治期の地誌の下書きや当地の旧名家の蔵書目録に並ならぬ関心を示すその男は、どこか胡散(うさん)くさくて一筋縄ではいかなそう。しかし博識ぶりは本物で、それに魅了されたぼくは、ある書物についての調査に協力することになる。
 小津久足著「皆のあらばしり」。小津安二郎の遠縁、久足によるものと目録に記載はあるが、その他のどこにも記録のない本は実在するのか。新発見もしくは偽書か。男とぼくは、探偵とその見習いのように、幻の本の真相に迫っていく。
 スリリングなのは、濃密な会話劇で物語が進む点だ。素数の日の木曜ごとに2人が待ち合わせる城址公園は、螺旋状(らせんじょう)の曲輪(くるわ)を持ち、道行く人の姿をふいに見失わせる構造となっている。憧れと疑心の間で揺れつつ、素性も狙いもなかなか明かさぬ男にぼくは食らいつき、対話を重ねる。そして自分の有用性を認めさせるべく秘策を繰り出すのだ。
 「騙(だま)すということは、騙されていることに気付いていない人間の相手をするということだ」。これは物語最終盤の男の言だが、騙し騙される関係に、おのずと読者も巻き込まれるだろう。
 ぼくが圧倒されるのは男の知識量である。神社の手水鉢(ちょうずばち)の石の種類まで言い当てられ驚きを隠せないぼくに、男は「学ぶうちに知らなあかんことが無限に出てくんねん」とうそぶく。知識は世界に対する認識の解像度を上げる。歴史の深掘りは、人々の連綿たる営みの上にある現在を知ることだ。人文学の意義が問われるいま、本書のメッセージは真理の光となる。マウントでなく、知性で結びつく対等な関係。ぼくの憧れは私たちの憧れでもある。

2022年2月20日日曜日

外岡秀俊の志

  昨日(2022年2月19日)の朝日新聞朝刊読書欄 ”ひもとく” に、「外岡秀俊の志」と題して、作家であり高校の同級生でもある久間十義が、「北帰行」、「傍観者からの手紙」、「ドラゴン・オプション」を取り上げ、解説、論評すると共に、外岡との交流、そして思いを記していた。


2022年2月3日木曜日

私のクラップブックから 外岡秀俊著「北帰行」

 独身時代、私は小説などの文芸に関する記事のスクラップブックを作っていた。今回、処分しようと取捨選択しているのであるが、その中に、先日亡くなった外岡秀俊の「北帰行」を批評している記事が三つ見つかったので掲載する。







 

2022年2月1日火曜日

池澤夏樹寄稿「外岡秀俊さんを悼む」


 左に示すように、作家の池澤夏樹が、「ぼくは未来の親友を失った」、という外岡秀俊さんを悼む文章を寄稿した(朝日新聞2022年1月19日夕刊掲載)。たびたび、外岡氏を悼む内容で恐縮だが、本当に惜しい人を亡くしてしまった。





(画像をクリックすると大きく表示されます)

2022年1月30日日曜日

多和田葉子、初の新聞連載小説「白鶴亮翅」

 私の大好きな作家である多和田葉子さんの初の新聞連載小説です。そして珍しい定住型小説。
 朝日新聞朝刊に2月1日から掲載されます。期待してます。



青春の一冊「北帰行」

 添付の如く、先週木曜日の朝刊(2022年1月20日)の「声」欄に投書がありました。当時、私と同じように外岡秀俊の「北帰行」を読んで心を動かされた人がいたんですね!


2022年1月11日火曜日

外岡秀俊 著「北帰行」「傍観者からの手紙」「アジアへ」

  外岡秀俊さんがお亡くなりになられた。私のデータベースを見ると、以下のようなことが書かれていた。

「北帰行」(1976年1月刊)
(内容)
『一握の砂』をかかえて、青春は北へ旅立った。苦汁にみちた炭鉱での少年期、そして上京後の挫折を記憶に甦らせながら…。石川啄木の軌跡に現代の青春を重ね、透明な詩情と緊密な思索が交響する青春文学の不滅の名作。
(感想)
文体も構成もストーリーもしっかりしていて処女作とは思えなかった事を記憶している。今回読んでも同じ感想を持った。しかし、今読むとストーリーが古めかしい感じがする。そして、このモチーフは何故?という感じもする。
今は朝日新聞の記者として、やや保守的で冒険しないレポートを書いているが、60歳に近くなった外岡の新しい小説を読んで見たい気もする。(2010年8月31日 記)

「傍観者からの手紙」(2005年8月刊)
(内容:AMAZONより)
2003年3月イラク戦争前夜からロンドン同時多発テロ事件まで55通。この困難の時代に、現場取材と時局分析を届けつづけた朝日新聞ヨーロッパ総局長の報告集。
「ロンドンの事件の前後にも切れ目なく、イスラエルやイラクからは自爆テロや戦闘による死傷の報道が流れています。昨日もまた、イラクでタンクローリーを使った自爆テロが起き、70人以上が亡くなりました。9・11事件後、世界中を覆い始めた社会の砂漠化が、とうとうロンドンにまで来てしまった。残念ですが、それが実感です」
2003年3月、イラク戦争前夜。朝日新聞ヨーロッパ総局長としてロンドンにデスクを構えていた著者から、一通の手紙の形式で原稿が送られてきた。「この手紙が届くのは一カ月後です。瞬時に地球の裏側に電子メールが届くいま、なぜそんな悠長なことを、と思われるかもしれません。ただ私は、そんな時代にこそ一月遅れの手紙が新しい意味をもつような気がします。」
以来、2005年7月のロンドン同時多発テロ事件まで55通。歴史や文学作品というフィルターを通しながら、現場の取材と困難な時局の分析を記した本書は、ひとつの時代のかたちを定着させようとする試みでもある。
(感想)
「他人の言葉に対する寛容は時に、自分が言葉に重きを置かない人の怠慢の証です。怒りを忘れない人は、言葉で戦っている人は、日本に住むあなたの周りにいるでしょうか」
文藝賞をもらった「北帰行」を読んだ時、将来、有望な作家が誕生したと思ったのは私だけではないだろう。その後、小説は書かず、朝日新聞で見かけたその名前がいつも気がかりであった。本屋で立ち読みしたこの本の続刊である「アジアへ」が面白そうなので、この本から読み始めた。
期待は裏切らなかった。無駄のない張りつめた文章、豊富な知識、見識の高さ、どれをとっても一流である。しかし、聲高でもなく、浮ついてもいないのが読む者を安心させる。お勧めの一冊である。導入の文章も美しい。(2010年7月26日 記)

「アジアへ」(2010年2月刊)
(内容:AMAZONより)
〈欧州にいた頃から、私の関心は少しずつアジアに向かって引き寄せられていった。
経済成長が著しく、社会が激動期に差しかかっているという理由だけではない。
日本が置かれた混迷と閉塞は、その遠因を近代の「脱亜入欧」に遡って読み解くしかなく、その打開の方途もまた、これからのアジアとの向き合い方に開かれているように思えた。その意味で、私の関心は、アジアそのものというより、いつも、「アジアから見える日本」にあったという方が正確かもしれない。これらの文章で、成否はともかく、私は時事問題を追うよりも、社会現象を通して歴史の軸心に遡ろうと試みたが、それは仕事柄、目先の出来事に振り回される心の平衡を保つためだったともいえる。「混迷」は時として、烈しく揺れ動く現実に追いつかない感性の惑乱であり、「閉塞」も、現実に目をふさいで平穏を得ようとする精神の懶惰を指すのかもしれない。雑事に追われた日々、これらの文章を書き継いでいくことが、私にとってはただ一つ、惑乱と懶惰にとらわれず、
現実に向き合う拠り所を与えてくれた〉
ロンドン、東京、香港を拠点に、世界を、アジアを、そして日本をみつめる著者が届けつづけた55通の手紙。
一方でのジャーナリストとしての取材の緻密さと論理構成、他方での文学的筆力と想像力が合わさった、過去と未来の間をめぐる記録(2005-2009)である。 
(感想)
基本的に第一冊目と変わらないのではあるが、ロンドンで見る目と東京に戻って、そしてさらに香港に移ってからの目は少し違う。何が違うかのかはうまく説明できないのであるが、やや落ち着きを失って、格調が落ちているような気がする。年齢もあるかも知れない。(2010年6月1日 記)