2014年9月22日月曜日

第151回(平成26年度上半期)芥川賞受賞作 柴崎友香「春の庭」


 柴崎友香の名前は文芸雑誌の広告や目次で良く見かけていて、作家としてある程度の地位を得ていることは知っていたので、いつかその作品を読んで見たいと思っていた作家の一人ではあった。今回芥川賞を受賞したので期せずして彼女の作品を読むことになった。(柴崎は7年間で4回の候補になっている)
 やはり文章も内容もしっかりしていて読みやすい作品であった。ここ数回の受賞作のような奇を衒った作品ではない。

 30歳過ぎた主人公・太郎は、離婚し、最寄り駅から徒歩で15分くらいの所にあるアパート「ビューパレス サエキⅢ」に3年前に引っ越してきた。最近は、駅からこのアパートまでのあちこちで工事や空き地が目立つようになり、この地域は再開発が進んでいる。このアパートも取り壊しが決まり、来年の七月の契約終了までには出て欲しいと大家から言われている。アパートは2階建てで、各階に4部屋あるが、すでに4部屋の住人は引っ越してしまっている。各部屋には番号でなく、「辰」から「亥」と干支がふってある。太郎の部屋は「亥」であり、他には「辰」に2月(注:今は5月)に引っ越してきた30歳過ぎと覚しき女性、「巳」に太郎の母親より年上に見える女性が住んでいる。また、「申」には若い男女が住んでいるが、太郎は話したこともない。
 物語りは「辰」に住んでいる「西」という女性が興味を持った「洋館ふうの水色の二階建て」の家にまつわる話しが中心である。アパートは、田の字型に4軒がブロックとなっている内の1軒であり、時計回りにアパートの右側は敷地いっぱいまで建てられているコンクリートの壁に囲まれた金庫のような家、その右が水色の家、さらに大家の古い木造家屋の様になっている。
 「西」は「春の庭」と題された写真集に写っている「水色の洋館」を見たくて引っ越してきたらしい。最初は、窓から洋館の庭を覗いていたのだが、行動がエスカレートし、中庭からブロック塀を乗り越えて洋館の敷地に入ろうとする。それを制して太郎と「西」は親しくなる。「西」は、そのうちに洋館に引っ越してきた森尾さん一家と仲良しになり、洋館の内部が写真集の頃と余り変わっていない事を知る。しかし、唯一、風呂場を覗くことが出来ないために、太郎に協力を頼むのだが、二人が毛蟹、ほっけの干物、イクラの瓶詰めを持って訪れた森尾家の部屋でトラブルが起き、意外な展開となる。

 果たしてこの作品で作者は何を訴えようとしたのだろうか。変わらない風景への郷愁、他人との関わりの中で生まれる思いもよらぬ関係性、太郎が父の骨を砕いて散骨した話しや庭に埋められた死体が発見されたというドラマの話しなどが出てくるので、生きている者の死者への関わりの仕方など、考えられるものはいくつかある。しかし、それらは日常生活のどこにでも転がっているような事柄だ。
 私は、最近、作家が何故その内容を小説の主題としたかが分からなくなってきている。それだけ、作家の考える事が複雑になってきているのか、それとも自分の身の回りの気になることだけに矮小化されつつあるのか。
 その作家にとって、その内容を主題とする必然性があるのか、作家は考えているのだろうか。着想が面白いから書いた、というならばエンタテイメントとさして変わらない事になる。いわゆる作家の気持ちの入っていない「良くできたお話し」になってしまう。

 選評の中で以下の評が気になったので掲げておく。
高樹のぶ子
 「春の庭」の作者は、これまで自分の居る場所への違和感不安感を書いてきた。本作では住まいがテーマだが、かつてそこに住んでいた人たちが消えたように、すべては散逸し流動する運命であることを、静かに明るく描いていて、そこには心地良い風も吹いている。(後略)
宮本輝
 今回の候補作五篇は、(略)。それぞれ独自の手練さを発揮してはいるものの、小説が終わりに近づくにしたがって、主題そのものから逃げ腰になっていくという歯がゆさを感じた。小説がひとつの長い譬喩だとすれば、それはどこかで「真実」と同化しなければならないと私は考えている。真実へと到らせるための譬喩だということになる。書き手の主題が単なる思いつき程度だと、譬喩はどこまで行っても真実へと転換されない。だから逃げるしかなくなるのだ。

2014年9月5日金曜日

座談会「戦後をみつめて」(前編)(角川短歌2014年8月号再録)


 私は、今もって「戦後」という言葉が使われ続けていること、そしてその言葉がどのように使われ、どのように受け取られているかについて、以前から疑問を持ち続けてきた。
今回、「角川短歌」の8月号及び9月号(2014年)に、昭和53年7月号に掲載された「座談会 戦後をみつめて」が再録されることを知り、図書館から借りて読んだ。興味を持ったのは、出席者に鶴見俊輔が含まれていたこともある。出席者は他に哲学者・市井三郎、歌人・玉城徹、歌人・岡野弘彦、歌人・金子一秋(司会)の5氏。
 再録の趣旨として、以下の事が記されている。
『(前略)まるで、つい昨日行われたかのように当時から現代まで変わらずに続く問題が話し合われていることに加え、参加者全員が戦争経験者であることから語られる話は、戦後69年経った現代においては、貴重なものといえます。(後略)』

 話しは変わりますが、皆さんは「戦後」と聞いて、その戦争は何戦争と思われますか?また、いつからいつまでと思われますか?
 私は、娘が中学生か高校生の時(1994年~1999年頃)に会話していて「戦後」という言葉を使い、「戦争って何戦争?」、「ベトナム戦争?」、と訊かれてびっくりした事があります。アメリカでは、戦後と言えばベトナム戦争だ、ということが当時の新聞には載ったことがありましたが、日本でもそういう状況にある事を身をもって知り、また、娘は勉強熱心でしたし、成績も良い方だと認識していましたので、多くの若者がそのような認識だと思ったものです。(閑話休題)

 8月号(前編)には、いくつかの面白い話しが載っていました。
 記述の意味がどうであったかは別として、経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたのは昭和31年(1956年)また、昭和53年(1978年)といえば終戦から33年目。徴兵され参戦し、終戦時25歳だった人は、未だ58歳。多くの人の中に戦争の記憶が残っていた時代である、という事を頭に入れて読むとより興味深い、と思う。

(市井)戦争に負けたという事実が、どこまで現在を規定しているかという形で、戦後は終わっているか、終わっていないかと問うならば、それは終わっていないというのは明らかです。占領時代につくられた体制は、いまだに強固に続いています。
(岡野)母親たちや老人たちが子どもや孫を失った悲しみが、どういう形で鎮められたか。…。そういう親たちの、あるいは老人たちの悲しみの姿のトータルみたいなものが、ぼくの心の中に、年とともにだんだん重くなってくるような気がするんです。…。そういう意味では、戦後は全く終わっていないという思いがします。
(鶴見)…、まず浅いところだけをつかめば、いかから考えてみると、戦後はとても早く終わったとわたしは思うんです。それは朝鮮戦争が始まったときに、もう終っちゃったと思う。それはどういう表層かというと、教育制度の改革とか、学校制度の改革とか、財閥解体とか、いろいろであるでしょう。そういう制度上の改革は、もう朝鮮戦争が始まったときにストップした。(中略)戦後は表層に限っていえば、昭和二十五年で終った。
(市井)…、結果として出来ていった明治日本というのは、大量に生み出されたいわば文明開化現象、過去のものをすべて否定して欧化をよしとする態度、それは第二次大戦後と同じじゃないですか。
(玉城)…、どうも敗戦体験が都市生活と、それから農村生活者との間を現実には非常に割いた。これは日本の敗戦体験の非常に不幸なところだと思うんですけれども、つまり敗戦体験が結びつける筈のものが非常な溝を深めたという面が日本の場合はあると思うんですよ。
(金子)…、敗戦を二度やった感じがするんですよ。(略)わたしは昭和四十六年に沖縄に行ったんですが、(中略)沖縄というのは、昭和四十七年からあらためて戦後が始まったのだと私には思われるのです。…、これは硫黄島が玉砕したとか、サイパンが玉砕したということは、その単位が三万とか、四万の形での玉砕なんですが、沖縄の場合は三十五万。ですから、島中、まさしく、これは戦跡ですよね。(略)この女性は五十歳くらいですけれども、ひめゆり部隊の生き残りの先生なんです。わたしは死ぬまで戦争のことを語り続けていく義務があるから、語るというんですね。
(金子)大和の人は別なんだというように、絶えず回りからひしひしと囲まれるような、(中略)、佐藤栄作が沖縄返還を勝ち得たときに、これで日本の戦後は終ったといいましたけどね。沖縄にとってはこれから戦後は始まるのだというところがあったのでしょう。

2014年9月1日月曜日

笠井潔・白井聡の「日本劣化論」を読む


 日本(あるいは日本の○○)は、劣化している。最近よく使われる(言われる)言葉である。著者の一人が作家であり、元全共闘で構造改革派系の新左翼のイデオローグであった笠井潔という事もあり、興味を持って本屋で立ち読みしたところ面白そうなので、図書館で借りて読んだ。余談だが私の前に借りた人が数人おり、また、わたしの読了を6人の人が待っている。この手の本を読みたがる人が意外に多いのにビックリした。(閑話休題)
 もう一人の著者は白井聡という政治学者である。ウィキペディアを見るとレーニン論を著した人らしい。笠井は私と同じ団塊の世代(1948年生まれ)であるが、白井は1977年生まれ(現在37歳)とほぼ30歳若い。
 読んで見ると予想通り両者共になかなか鋭い論を展開しているが、元全共闘(元新左翼)とレーニン論を著している学者ではあるが、必ずしも反体制という分けではない彼ら自身の主張と合わないから気にくわない、あるいは間違っているから正しい見方を教えましょう、という感じである。もっとも、ウィキペディアに依れば、笠井は既にマルクス主義を放棄しているらしい。(閑話休題)
 章立ては、
第一章「日本の保守はいかに劣化しているのか」
第二章「日本の砦 天皇とアメリカ」
第三章「アジアで孤立する日本」
第四章「右と左がどちらも軟弱になる理由」
第五章「反知性主義の源流」
第六章「独立という思想へ」
 である。
 第一章で白井は、『現政権の「世界市民の一員として行動する」という方針は、日米同盟の強化とイコールになってしまっている。つまり世界=アメリカになってしまっていて(後略)』と述べ、笠井は『祖父より明らかに劣化している。』と言う。
 第二章では白井は、『僕が日本の対米従属をよろしくないと見なすのは、それが戦前の国体の構造とまったく同じになっているからです。』。そして、『戦前の天皇が占めていた地位に、戦後、アメリカが代入されたのです。……。アメリカの意思というのも、天皇の意思と同様というかそれ以上に一種のブラックボックスなんですね。』と言う。
 第三章では、日本は朝鮮や中国に負けたのであり、その事を認識すべきである。ルールは時代とともに変わりうるのであり、新しいルールに適応できない性格は色々な領域で現れるようにも見える、という。
 第四章では、右派の台頭は左派的なるものの退潮が指摘できる。社会党は政権奪取を本気でやろうとしていなかったし、できる見込みもなかった、と述べ、そして、左派の衰退は、いわゆる”マルクス主義”のせいだ、という(この論理はやや難しく充分には理解できませんでした)。
 この章では、とても納得できない論が展開されている。それは笠井の以下の様な論である。
『アメリカの属国である日本は、アメリカという半世界国家のもとで、「戦争を放棄」し続けました。言い換えれば憲法九条は。原理的に日米安保条約と相互補完的なのです。九条支持と安保反対は両立し得ない。これに反する立場は空想の彼方に舞い上がるしかありません。』
 確かに、憲法九条制定にあたって、そのような考えや経緯はあったかも知れない(それは不明だ)が、少なくとも九条があったからこそ70年近く日本は戦争をしないで来れたのも事実である(事実、この本でもアメリカに対してのExcuseとしての役割があった事を述べている)。そして、その憲法九条を支えたのは国民の声(あるいは声なき声)であった、と私は思う。
 第五章では、笠井は『僕にとっても八十九年は大きな曲がり角でした。(中略)マルクス主義批判は失効した。これからは社会思想的な立場を新たに創造しなければならないと考えて、『国家民営化論』を書いたわけです。』、と述べる。
 第六章では、沖縄独立論などが展開される。「かりゆしグループ」CEOの平良朝敬さんの話しとして、『辺野古の岬はリゾートとして価値があり、基地が返還されれば二万人の雇用が生まれる』、という話しが載っていて興味深い。また、笠井は『先ほど十九世紀は国民戦争、二十世紀は世界戦争だと要約しましたが、では二十一世紀の戦争はどうなるのか。カール・シュミットのいわゆる世界内戦が二十一世紀の戦争の形になるでしょう。、と述べる。それは、アメリカなどが企てた世界国家が失敗に終わったからだという。そして、駐屯地や基地の食事のみならず、軍事訓練をもアウトソーシングし始めている、という。つまり、国民国家の軍隊は国民の軍隊であるというのは、半ばフィクションになりつつあるというのも書かれているが、恐い話しである。
(注)この本では、国民戦争:国家間の利害対立解消のための手段、世界戦争:世界国家樹立のための手段、世界内戦:違法行為に対抗する合法国家の戦争が正義のための戦争、すなわち「正戦」、と定義されている

 この手の本を読んでみていつも思うのは、評論家・知識人や学者の話しは「岡目八目」あるいは「高みの見物」である、という事である。論じれど活動しないならば、何の意味をなすのだろうか。確かに人を啓発する面はあるが、無責任な意見も投げ散らされているのではないかという気がするのである。