私は、今もって「戦後」という言葉が使われ続けていること、そしてその言葉がどのように使われ、どのように受け取られているかについて、以前から疑問を持ち続けてきた。
今回、「角川短歌」の8月号及び9月号(2014年)に、昭和53年7月号に掲載された「座談会 戦後をみつめて」が再録されることを知り、図書館から借りて読んだ。興味を持ったのは、出席者に鶴見俊輔が含まれていたこともある。出席者は他に哲学者・市井三郎、歌人・玉城徹、歌人・岡野弘彦、歌人・金子一秋(司会)の5氏。
再録の趣旨として、以下の事が記されている。
『(前略)まるで、つい昨日行われたかのように当時から現代まで変わらずに続く問題が話し合われていることに加え、参加者全員が戦争経験者であることから語られる話は、戦後69年経った現代においては、貴重なものといえます。(後略)』
話しは変わりますが、皆さんは「戦後」と聞いて、その戦争は何戦争と思われますか?また、いつからいつまでと思われますか?
私は、娘が中学生か高校生の時(1994年~1999年頃)に会話していて「戦後」という言葉を使い、「戦争って何戦争?」、「ベトナム戦争?」、と訊かれてびっくりした事があります。アメリカでは、戦後と言えばベトナム戦争だ、ということが当時の新聞には載ったことがありましたが、日本でもそういう状況にある事を身をもって知り、また、娘は勉強熱心でしたし、成績も良い方だと認識していましたので、多くの若者がそのような認識だと思ったものです。(閑話休題)
8月号(前編)には、いくつかの面白い話しが載っていました。
記述の意味がどうであったかは別として、経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたのは昭和31年(1956年)。また、昭和53年(1978年)といえば終戦から33年目。徴兵され参戦し、終戦時25歳だった人は、未だ58歳。多くの人の中に戦争の記憶が残っていた時代である、という事を頭に入れて読むとより興味深い、と思う。
(市井)戦争に負けたという事実が、どこまで現在を規定しているかという形で、戦後は終わっているか、終わっていないかと問うならば、それは終わっていないというのは明らかです。占領時代につくられた体制は、いまだに強固に続いています。
(岡野)母親たちや老人たちが子どもや孫を失った悲しみが、どういう形で鎮められたか。…。そういう親たちの、あるいは老人たちの悲しみの姿のトータルみたいなものが、ぼくの心の中に、年とともにだんだん重くなってくるような気がするんです。…。そういう意味では、戦後は全く終わっていないという思いがします。
(鶴見)…、まず浅いところだけをつかめば、いかから考えてみると、戦後はとても早く終わったとわたしは思うんです。それは朝鮮戦争が始まったときに、もう終っちゃったと思う。それはどういう表層かというと、教育制度の改革とか、学校制度の改革とか、財閥解体とか、いろいろであるでしょう。そういう制度上の改革は、もう朝鮮戦争が始まったときにストップした。(中略)戦後は表層に限っていえば、昭和二十五年で終った。
(市井)…、結果として出来ていった明治日本というのは、大量に生み出されたいわば文明開化現象、過去のものをすべて否定して欧化をよしとする態度、それは第二次大戦後と同じじゃないですか。
(玉城)…、どうも敗戦体験が都市生活と、それから農村生活者との間を現実には非常に割いた。これは日本の敗戦体験の非常に不幸なところだと思うんですけれども、つまり敗戦体験が結びつける筈のものが非常な溝を深めたという面が日本の場合はあると思うんですよ。
(金子)…、敗戦を二度やった感じがするんですよ。(略)わたしは昭和四十六年に沖縄に行ったんですが、(中略)沖縄というのは、昭和四十七年からあらためて戦後が始まったのだと私には思われるのです。…、これは硫黄島が玉砕したとか、サイパンが玉砕したということは、その単位が三万とか、四万の形での玉砕なんですが、沖縄の場合は三十五万。ですから、島中、まさしく、これは戦跡ですよね。(略)この女性は五十歳くらいですけれども、ひめゆり部隊の生き残りの先生なんです。わたしは死ぬまで戦争のことを語り続けていく義務があるから、語るというんですね。
(金子)大和の人は別なんだというように、絶えず回りからひしひしと囲まれるような、(中略)、佐藤栄作が沖縄返還を勝ち得たときに、これで日本の戦後は終ったといいましたけどね。沖縄にとってはこれから戦後は始まるのだというところがあったのでしょう。
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