2014年9月1日月曜日

笠井潔・白井聡の「日本劣化論」を読む


 日本(あるいは日本の○○)は、劣化している。最近よく使われる(言われる)言葉である。著者の一人が作家であり、元全共闘で構造改革派系の新左翼のイデオローグであった笠井潔という事もあり、興味を持って本屋で立ち読みしたところ面白そうなので、図書館で借りて読んだ。余談だが私の前に借りた人が数人おり、また、わたしの読了を6人の人が待っている。この手の本を読みたがる人が意外に多いのにビックリした。(閑話休題)
 もう一人の著者は白井聡という政治学者である。ウィキペディアを見るとレーニン論を著した人らしい。笠井は私と同じ団塊の世代(1948年生まれ)であるが、白井は1977年生まれ(現在37歳)とほぼ30歳若い。
 読んで見ると予想通り両者共になかなか鋭い論を展開しているが、元全共闘(元新左翼)とレーニン論を著している学者ではあるが、必ずしも反体制という分けではない彼ら自身の主張と合わないから気にくわない、あるいは間違っているから正しい見方を教えましょう、という感じである。もっとも、ウィキペディアに依れば、笠井は既にマルクス主義を放棄しているらしい。(閑話休題)
 章立ては、
第一章「日本の保守はいかに劣化しているのか」
第二章「日本の砦 天皇とアメリカ」
第三章「アジアで孤立する日本」
第四章「右と左がどちらも軟弱になる理由」
第五章「反知性主義の源流」
第六章「独立という思想へ」
 である。
 第一章で白井は、『現政権の「世界市民の一員として行動する」という方針は、日米同盟の強化とイコールになってしまっている。つまり世界=アメリカになってしまっていて(後略)』と述べ、笠井は『祖父より明らかに劣化している。』と言う。
 第二章では白井は、『僕が日本の対米従属をよろしくないと見なすのは、それが戦前の国体の構造とまったく同じになっているからです。』。そして、『戦前の天皇が占めていた地位に、戦後、アメリカが代入されたのです。……。アメリカの意思というのも、天皇の意思と同様というかそれ以上に一種のブラックボックスなんですね。』と言う。
 第三章では、日本は朝鮮や中国に負けたのであり、その事を認識すべきである。ルールは時代とともに変わりうるのであり、新しいルールに適応できない性格は色々な領域で現れるようにも見える、という。
 第四章では、右派の台頭は左派的なるものの退潮が指摘できる。社会党は政権奪取を本気でやろうとしていなかったし、できる見込みもなかった、と述べ、そして、左派の衰退は、いわゆる”マルクス主義”のせいだ、という(この論理はやや難しく充分には理解できませんでした)。
 この章では、とても納得できない論が展開されている。それは笠井の以下の様な論である。
『アメリカの属国である日本は、アメリカという半世界国家のもとで、「戦争を放棄」し続けました。言い換えれば憲法九条は。原理的に日米安保条約と相互補完的なのです。九条支持と安保反対は両立し得ない。これに反する立場は空想の彼方に舞い上がるしかありません。』
 確かに、憲法九条制定にあたって、そのような考えや経緯はあったかも知れない(それは不明だ)が、少なくとも九条があったからこそ70年近く日本は戦争をしないで来れたのも事実である(事実、この本でもアメリカに対してのExcuseとしての役割があった事を述べている)。そして、その憲法九条を支えたのは国民の声(あるいは声なき声)であった、と私は思う。
 第五章では、笠井は『僕にとっても八十九年は大きな曲がり角でした。(中略)マルクス主義批判は失効した。これからは社会思想的な立場を新たに創造しなければならないと考えて、『国家民営化論』を書いたわけです。』、と述べる。
 第六章では、沖縄独立論などが展開される。「かりゆしグループ」CEOの平良朝敬さんの話しとして、『辺野古の岬はリゾートとして価値があり、基地が返還されれば二万人の雇用が生まれる』、という話しが載っていて興味深い。また、笠井は『先ほど十九世紀は国民戦争、二十世紀は世界戦争だと要約しましたが、では二十一世紀の戦争はどうなるのか。カール・シュミットのいわゆる世界内戦が二十一世紀の戦争の形になるでしょう。、と述べる。それは、アメリカなどが企てた世界国家が失敗に終わったからだという。そして、駐屯地や基地の食事のみならず、軍事訓練をもアウトソーシングし始めている、という。つまり、国民国家の軍隊は国民の軍隊であるというのは、半ばフィクションになりつつあるというのも書かれているが、恐い話しである。
(注)この本では、国民戦争:国家間の利害対立解消のための手段、世界戦争:世界国家樹立のための手段、世界内戦:違法行為に対抗する合法国家の戦争が正義のための戦争、すなわち「正戦」、と定義されている

 この手の本を読んでみていつも思うのは、評論家・知識人や学者の話しは「岡目八目」あるいは「高みの見物」である、という事である。論じれど活動しないならば、何の意味をなすのだろうか。確かに人を啓発する面はあるが、無責任な意見も投げ散らされているのではないかという気がするのである。

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