経験というものは大事である。経験するとしないとでは大きな違いがあるだろう。
戦後生まれの私は戦争を全く知らない。おまけに1900年生まれの父親は太平洋戦争においては戦地に行ってないらしく、戦争の話しをしなかった。母も東京大空襲がひどかった、ということは話していたような気がするが、その他の事を聞いた記憶がない。小さいときに東京に行ったときには上野の地下道などで浮浪児を見たり、田舎の町とはいえ傷痍軍人が街で金銭を求めて座っている姿を見たりもしたが、戦争に対する切実な感覚を持ったことはない。朝鮮戦争の時には未だ幼児であったし、ベトナム戦争の時には米軍基地の近くに住んではいなかったので、その緊迫感は伝わってこなかった。勿論、座談会が行われた昭和53年(1978年)においても、そして現在においてもその感覚は変わっていない。
座談会に参加した鶴見俊輔と市井三郎は1922年生まれ、玉城徹と岡野弘彦は1924年生まれ、金子一秋は生年不明であるが同年代であろう。
座談会が行われたのは戦後33年。20歳過ぎで終戦を迎えた彼らにとっては、それでも未だ戦争の記憶は如実であったに違いない。しかし、彼らの間にもその感覚に多少の温度差はある。
金子は「…実はここには不在で欠席している人がいるわけです。出席できない人がいるわけです。…」、と言って、戦死した人たちのことを頭の中に置きながら話している。
市井は、「…戦勝国として彼らは、東南アジアの植民地にすべての独立を与えた。つまりヘーゲル的な歴史の狡智という論理では言えば、戦争の目的は達成されたんだよ。…」、と言って死んだ弟の英霊に答え、また、有機農法を進める三里塚の(セクト学生ではなく)農民たちだけを讃え、「…かつてあった田中正造を生んだような自治的な村、共同体というものは、いまは非常に少数だけれども、復活しているんです。…」、と言う。
岡野は、平家物語や念仏踊りなどを例に出して、「…かなりの年月をかけて、死者の魂の浄化、さらには新しい生き方へのたしかな足場をさぐり出して、次の新しい生活を築いていった。民衆の息長い持続力のある情熱を信じます。…」、と言う。
そして鶴見は例によって幅広い観点から色々な話しをする。戦後の不戦憲法を守りたいとおもっているのは、日本人ではなく在日朝鮮人ではないのかとか、第三の開国を内側から切り開くのは在日や沖縄の人だろうとか、暮らしを守るという思想が重大だという気がするとか、述べる。
話しは変わるが、最近、以前ほど(戦前、戦中)戦後という言葉を使わなくなった気がする。良く使うのは昭和と平成だ。それもそうだろう、日本は70年近く戦争をしていないし、(殆ど)戦争に荷担していないからだ。昭和という言葉は、どちらかというと戦前、戦中は入っていない戦後のみ、特に昭和30年代以降を指している事が多いような気がする。
70年近くも戦争をしないと、多くの国民は戦争を経験していない。そして、平和の有り難さが分からない人間が殆どになっている。だから、領空や領海を侵すならば、すぐにこちらも武力で対抗すればいいんじゃーないか、という気になる。
安倍首相は何かにつけて、「戦後レジュームからの脱却」、と言う。これは色々な意味にとらえられているが、首相が意図するところは米国の占領下でできた法律や行政などの基本的枠組みの変更の様で、その中にいざとなれば日本も武力を誇示、発揮できる様にする事も含まれている。日本も戦前の様に武力の誇示・発揮をしたいという事だ。諸外国にすれば、それは現在も続いている戦勝5ヵ国体制の変更を意味するところとなり、日本は、また昔のように杭を出そうとしているな、と捉える。
現在、世界中いたるところで「国民国家」を打破しようとする民族や宗教を柱とした国家建設への動きや、それに伴うテロや暴力、戦争が多発している。そういったことを考えれば「戦後レジューム」の綻びは見えてきているのではあるが、日本は決して70年近く不戦の歴史とその意義を忘れてはならない。そう私は思う。
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