2015年3月28日土曜日

小畑峰太郎著「STAP細胞に群がった悪いヤツら」(新潮社、2014.11.25発行)


 昨年(2014年)は、STAP細胞論文の不正問題が社会、分けても科学界を揺るがした。しかし、理研は昨年12月、STAP細胞は存在せず、別の万能細胞であるES細胞の混入によるものだったと結論づけ、今月(2015年3月)に「対応」の終結を宣言した。そして、もっとも責任を負うべき野依理事長は引責辞任を否定しながら、月末には理研を去る。
 理研はどんな「対応」をしたのだろうか?「理研改革委員会」の提言に従って、研究・論文のチェック体制、組織運営やガバナンスのあり方について変更したのであろうが、果たしてそんな誰もが考える様な、どこの企業でもやるようなありきたりの改革で再発が防げるものであろうか?
 そもそも、今回の不正事件を誰と誰が、何のために起こしたのかが明確にならない以上、暫定的な対策は講じることはできるだろうが、本来の対策を見出すことはできないはずである。国を挙げて、この問題(事件)の本質について時間を掛けて解明しなければならないし、そうすることが今後の日本あるいは世界の科学のあるべき姿を見出すことになると思う。
 前置きはともかくとして、この本で著者は「科学者と科学を忘れた科学者、利権に集まる官僚、資金を集め、株で大きく儲けるベンチャー企業、その後に控える医療と化学を専門とする商社などの経済界。新たな国策産業化を目論む再生医療、バイオ産業分野に巣くう人々の錬金術の構図」に、目を向けて筆をとったらしい。だから、歯に衣を着せず、憶測と言われるのを畏れずに筆を進めていて、読むものを惹きつける。しかし、それらの憶測(推測)を裏付ける検証は若干乏しく乱暴な部分もある。それは、この著者が出版社出身のライターであることにも起因するのであろうが、発表媒体が「新潮45」ということもあるかも知れない。
 そういった問題はあるものの、再生医療を含めて先進科学がビジネスという”魔物”に取り込まれている事が、この事件の本質であることは理解できた。現在は、先進科学に限らず、あるかなきかの情報で”お金”が動く世界である。人はそれをビジネスと言う。しかし、ビジネスと言う呼び方は同じでも実と虚がある、という事を肝に銘じておかなければならない。もはや、科学といえども虚(”うわさ”)でお金が動くようになってしまったのは情けない。そういった場所から離れて仕事をするのは難しいだろうから、いかにそういった事に振り回されない構造を作り出さなければならないだろう
 最後に、この本が引用している、武田靖北大名誉教授の「小保方氏を擁護すれば、「技術者」ならば、それでも良いということだ。「なぜ」かが分からないとしても、確実に物が作れれば良いのであるから。」、という考えに注文を付けたい。技術といえども、「やったできた」では、良いものができない。「なぜ」そうなるのかが分からなければ、他の人(企業)の技術と差別化できないからだ。


*私が自動車会社で素材の研究開発をしている時に、共同開発していた車両関連の研究所の研究者は考案した構造を一年に一回テストし、それを良しとしていたせいか、われわれ素材の研究者が毎日違う実験をやるのを見て、不思議がり、化学はファジーで理解できないと言ったのを聞いた。だから、原子力に関する機械工学博士である武田氏には、ファジーな化学の世界は理解できず、化学や化学技術の進め方を誤解しているのだろうと思う

2015年3月3日火曜日

樋口陽一著「加藤周一と丸山眞男: 日本近代の〈知〉と〈個人〉」

 評論(批評)というものは、対象を解説し意見を述べることではなく、その人の依って立つところを基準にして対象を論じ、その人の考えを述べる事だという事に気づいたのは、そんなに遠い昔ではない。書評や映画、音楽、絵画などの評論は前者に近いものが多いので、そのように思ってしまっていたのだが、両者は似ているようで全然違う。その違いは、どちらの土俵で相撲を取っているかだ(その人の考えが、どれだけつまびらかにされているかの度合いが違うのだ)。勿論、この著作は後者である。
 樋口さん(本来は先生と呼ぶべきであるが、出身大学の先生であるので、親しく”さん”づけしたい。しかし、ここでは、以下、樋口とする)のこの著作は題名通り「加藤周一と丸山眞男」の考えも論じてはいるが、実際は副題にある「日本近代の<知>と<個人>」に関する(対する)憲法学者たる彼の考えを論じたものである。
 何を論じているのかは、“はじめにー何を、問題にするのか”を読めば良く分かる。この著作は、
加藤の考えを論じた<Ⅰ>“比較における「段階」と「型」ー加藤周一「雑種文化」論から何を読み取るか”、
丸山の考えを論じた<Ⅱ>“憲法学にとっての丸山眞男ー「弁証法的な全体主義」を考える”、
そして樋口の考えを論じた<Ⅲ>“「個人の尊厳」=「憲法」ー「外来」と「内在」の軋みの中で” の三章立てになっている。
<Ⅰ>では加藤の提起した「雑種文化」という考えと、加藤が「民主主義」というコトバに定義した「個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度」の「個人の尊厳と平等」という考えに到った西欧の歴史を論じ、さらには加藤の終戦直後の姿勢と晩年の行動を論じる。
<Ⅱ>では、1936年という自分の考えをストレートに言うのが難しい時代に丸山が提起した「弁証法的全体主義」という考えと、近代における「個人」と「国家」の問題を論じる。
<Ⅲ>では、<Ⅰ>、<Ⅱ>を踏まえ、「個人」と「平等」、「近代化(=外来)」と「旧来の文化(=内在)」、「個人」と「国家」あるいは「公共」について近代立憲主義や民主主義の立場から論ずる。
 樋口は、<あとがき>で、今日本で起きている「憲法問題」に言及する。<はじめに>でも述べているのではあるが、樋口は”戦争への流れ”が再現することを憂えている。これらの動きは立憲主義を無視した流れである。憲法学者として、樋口はこの動きに対して声高に異を唱える(声高といっても冷静沈着である)。

 この本は、私の様な西欧の近代化の流れを良く理解していない人間にとっては、一度読めば充分に理解できるという内容ではない。今回は市の図書館から借りて読んだのだが、いずれ自分で購入し、再読しなければいけないだろうと思う。
 最後に、あとがきの前のページに加えられている加藤及び丸山に対する樋口のオマージュともいえる既発表の二つのエッセイを楽しく読んだことを書いておきたい。

 加えて、知識人というコトバの定義として引用されている「自分が持つ専門知識から出発して、人類全体に妥当する普遍的価値を擁護するために、一般的な政治・社会問題について発言・行動する人間」(石崎晴己執筆)を紹介しておきたい。