2015年3月3日火曜日

樋口陽一著「加藤周一と丸山眞男: 日本近代の〈知〉と〈個人〉」

 評論(批評)というものは、対象を解説し意見を述べることではなく、その人の依って立つところを基準にして対象を論じ、その人の考えを述べる事だという事に気づいたのは、そんなに遠い昔ではない。書評や映画、音楽、絵画などの評論は前者に近いものが多いので、そのように思ってしまっていたのだが、両者は似ているようで全然違う。その違いは、どちらの土俵で相撲を取っているかだ(その人の考えが、どれだけつまびらかにされているかの度合いが違うのだ)。勿論、この著作は後者である。
 樋口さん(本来は先生と呼ぶべきであるが、出身大学の先生であるので、親しく”さん”づけしたい。しかし、ここでは、以下、樋口とする)のこの著作は題名通り「加藤周一と丸山眞男」の考えも論じてはいるが、実際は副題にある「日本近代の<知>と<個人>」に関する(対する)憲法学者たる彼の考えを論じたものである。
 何を論じているのかは、“はじめにー何を、問題にするのか”を読めば良く分かる。この著作は、
加藤の考えを論じた<Ⅰ>“比較における「段階」と「型」ー加藤周一「雑種文化」論から何を読み取るか”、
丸山の考えを論じた<Ⅱ>“憲法学にとっての丸山眞男ー「弁証法的な全体主義」を考える”、
そして樋口の考えを論じた<Ⅲ>“「個人の尊厳」=「憲法」ー「外来」と「内在」の軋みの中で” の三章立てになっている。
<Ⅰ>では加藤の提起した「雑種文化」という考えと、加藤が「民主主義」というコトバに定義した「個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる社会制度」の「個人の尊厳と平等」という考えに到った西欧の歴史を論じ、さらには加藤の終戦直後の姿勢と晩年の行動を論じる。
<Ⅱ>では、1936年という自分の考えをストレートに言うのが難しい時代に丸山が提起した「弁証法的全体主義」という考えと、近代における「個人」と「国家」の問題を論じる。
<Ⅲ>では、<Ⅰ>、<Ⅱ>を踏まえ、「個人」と「平等」、「近代化(=外来)」と「旧来の文化(=内在)」、「個人」と「国家」あるいは「公共」について近代立憲主義や民主主義の立場から論ずる。
 樋口は、<あとがき>で、今日本で起きている「憲法問題」に言及する。<はじめに>でも述べているのではあるが、樋口は”戦争への流れ”が再現することを憂えている。これらの動きは立憲主義を無視した流れである。憲法学者として、樋口はこの動きに対して声高に異を唱える(声高といっても冷静沈着である)。

 この本は、私の様な西欧の近代化の流れを良く理解していない人間にとっては、一度読めば充分に理解できるという内容ではない。今回は市の図書館から借りて読んだのだが、いずれ自分で購入し、再読しなければいけないだろうと思う。
 最後に、あとがきの前のページに加えられている加藤及び丸山に対する樋口のオマージュともいえる既発表の二つのエッセイを楽しく読んだことを書いておきたい。

 加えて、知識人というコトバの定義として引用されている「自分が持つ専門知識から出発して、人類全体に妥当する普遍的価値を擁護するために、一般的な政治・社会問題について発言・行動する人間」(石崎晴己執筆)を紹介しておきたい。

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