2016年4月24日日曜日

鶴見俊輔 著「まなざし」


 この本を読み始めたとき、「知」を感じた。いまどきネットで調べて得る、狭くて浅い「知」ではない。長い期間で蓄え培った「知」だ。
 そして、この本に記された、著者や著者に選ばれた人たちや対談者の言葉に多くの示唆を得た。たとえば、石牟礼道子管見の章では、
 日本の知識人の特徴は記憶の短い事である。との書き出しで始まり、「私のきらいな日本の知識人の特徴は明治以後に限られることが分かった。明治以前には知識人は今のようなショート・メモリーによって生きてはいない。」、と言い切る。
 また、「石牟礼道子のことを考えると、おなじ時代に別のところでおこったベトナム人とアメリカ合衆国の人びとの戦い、(中略)。そこでも、共同体のための自死と、それに及ばない近代文明の指導的知識人の二つの感じかたの対立である。高等教育を受けた文明人には、共同体の感情が自分自身の中に湧きあがってくる人びとの事が、想像できなくなっており、(後略)」、と書く。
 「一度デモクラシーを通してファシズムに成長した日本が、アメリカ合衆国に後押しされて二度目のファシズムに進んでゆくのに、私はどう対するか。(中略)。日本の大学は、明治国家のつくった大学で、国家の造った大学として、国家の方針の変化に弱いという特徴を持っている。(後略)」、とも述べる。
 金時鐘は、著者との対談で、「親しい関係と思われるものにむしろ切れねばならないものがあり、関係ないと思われているものにむしろ関係をつくりださねばならないものがあるんだということも(中略)いかに先進的な、革命的なことを言っても、心情の質は旧態依然で、意識の底辺は滞ったままだと。」と話す、等々。
 是非、一読することをお勧めする。
 ただ、高野長英以降の親族、もしくは近親者に関する話しは、やや甘めの感想(観察)になっている気がする。
 又、同じ話が何回も出てきてくどい感じがする。これは、著者が昨年7月20日に没したあとの最初の単行本、つまり最後の著作であり、これまで、種々の場に書いたり述べたりしたことを整理したためでもあるので、致し方ないのかもしれない

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