2018年7月31日火曜日

多和田葉子 著「胡蝶、カルフォルニアに舞う」

 どういう事情かわからないが、最近、多和田葉子の作品が頻繁に文芸雑誌に掲載される。今回の作品は、読むつもりはなかったのだが、偶々、春樹の最新短編が掲載されている雑誌(文學界7月号)に載っていたので、ついでに読んだ。
 日本の大学に入れないので、親がアメリカに留学させたが、授業にも出ず、遊んでいた”I”が、どうせ卒業もできないし、アメリカでも就職できないのだろうからと、一念発起(?)して、日本で就職すれば、親が喜ぶだろうと10年ぶりに帰国。メールだけの友達で、高校時代の同級生の優子のところに寄宿して、面接に行った会社での試験は、白い内装の箱の中に入って、顧客からの電話を受けるカスタマーサービスの仕事。英語ができるだけでいいという仕事は、うまくこなせるのだが、倒れるまで働かせるのではないだろうと思うと、それは、アメリカに向かう機内での夢であった。
 題名が示すように、これは「胡蝶の夢」なのか?10年ぶりの日本では、電車の乗車券を買う時に、「西瓜」を使うなどという、つまらない言葉遊びは多和田らしいが、なんでこんな作品を書いたのかわからない。彼女の作品には、いつも何らか意味が隠されているのだが、この場合は何だろう?

 それにしても、彼女の作品としては、駄作の部類だろう。何らかの事情があって書いたのだろうが、余り自分の作品を安売りしないほうが良いだろう。ノーベル賞候補作家なのだから。もっとも、本人はそんな風に思っていないかも知れないし、確率的にもかなり低いのだから、どうでも良いのかも知れないが。

村上春樹 著「三つの短い話」(文學界2018年7月号掲載)

 村上春樹作の最新短編「三つの短い話」(文學界2018年7月号掲載)を読んだ。
 最初の「石のまくらに」は、アルバイト先で知り合い、一度だけセックスした、短歌を作る女性を絡めての話し。ここで紹介されている短歌が、”ちほ”と名乗るその女性が書いた(つまり春樹が作った)短歌なのか、それとも他の誰かが作った歌の転用なのか?まあ、それがわかっても何も意味ないが。この作の最後には、次のような短歌が載っている。
 たち切るも/たち切られるも/石のまくら
 うなじつければ/ほら、塵となる
 これは、刃物で首を刎ねられることが、彼女の死のあり方だった、ことを示す、一つの短歌なのだろうか?いつもながらに春樹の作は、意味深である(もってまわっている)。そして、何か翻案なのかと思わせる節がある。
 二番目の「クリーム」は、十八歳の時に経験した奇妙な出来事についてだ。十六歳まで通っていたピアノの教室で一緒だった女性から、予備校時代に、突然に演奏会への招待状を受けるが、行ってみると、そんな演奏会はない。その帰り、小さな公園で会った老人とのナゾナゾのような会話が、この作品の柱である。「クリームの中のクリーム」、「中心がいくつもあって、外周を持たない円」とは??
 三番目の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、学生時代、いたずらに書いた実在しないレコードの話だ。死んだはずなので、新しいボサノヴァのレコードが出るはずがないのに、その評論を信じ込んでしまう編集者。そして、卒業し、働き出してからニューヨークの中古レコード店で見つけた、同名のレコード。誰かが冗談で作ったと思って買わずにホテルに戻ったが、気になり、翌日買いに行ったのだが、店主はそんなレコードは売っていないと言う、不思議な話。
 いろんな事情で作品というのは、生まれるのだろうが、近の春樹の作品は面白みがない。自称ハルキストの私は、そう思う。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」頃からだろうか、なんかストーリーが薄まって来たというのか、作られ感があるというのか、ページを読み進めさせるドライビングフォースに欠けてきている。

 もう、春樹も69歳、「風の歌を聴け」を出してから、39年になる。本人がお疲れかもしれないし、私が飽きてきたのかもしれないし、世の中の流れから外れてきたのかもしれない。何れにしても、小説だって、人間と同じように、いつかはご臨終を迎えるのだ。

2018年7月14日土曜日

川上未映子著「ウィステリアと三人の女たち」

 「ウィステリア」とは、「藤」である。
 ネットで、藤について調べてみると、日本では古くから、フジを女性に、マツを男性にたとえ、これらを近くに植える習慣があった、とある。
 また、花言葉は、「優しさ」「歓迎」「決して離れない」「恋に酔う」、と書かれている。
 西洋では、「welcome(歓迎)」「steadfast(確固たる、しっかりした、忠実な)」、とも書かれている。川上未映子が、このようなことをどれだけ意識したかは分からない。
 しかし、少なくとも藤を女性性として意識したことは、確実だろう。収録された、4つの短編のすべてが女性の物語であり、「彼女と彼女の記憶」なのだ。私は、最後の「ウィステリアと三人の女たち」に、添え物のように出てくる夫しか、男性の登場人物を記憶していない。
 川上未映子の作品の全てを読んでいるわけではないが、私が読んだのは、少年少女を登場させる作品がほとんどであったような気がする。何か彼女に作風を変えさせる環境変化があったのだろうか?子供を産み、育てている事が影響しているとは思えない。キーワードは女性だ。
 四つの物語に共通するのは、主人公に影響を与える「彼女」の存在である。恋愛関係にあるわけではないが、なんだか心が繋がっているような関係に思える。
 最初の「彼女と彼女の記憶について」では、主人公(女性)が、小学生時代に親しかったが、その後、女の子と一緒に餓死した同級生、そして、そのことを教えた同級生(いずれも女性)。
 「シャンデリア」では、デパートのブランド店周りで毎日を過ごす主人公(女性)が出会った、ブランド品にまみれた老婆。
 「マリーの愛の証明」では、施設の校外学習で一緒に歩く、昔、主人公(女性)が愛していた女性。
 最後の「ウィステリアと三人の女たち」では、自宅の前の廃屋を見に来る女性。そこに住んでいた老婆と一緒に英語を教えていた英国人の女性教師。
 彼女たちの関係は、女性性に満ちていて、男性の私にはミステリーに満ちている。何かが起きそうで、あるいは少し何かが始まっているが、決定的なこと、これから起きるだろうことは、そこに提示されない。瞬間的にだが、韓国のキム・ギドク監督の映画の作風を思い出させられた。
 添付した文月悠光(ふづきゆみ:詩人、エッセイスト、歌人でもある?)の評論は、かなり正しい読み方を提示しているかもしれないが、いくつもの読み方ができるのが小説であり(一つの答えしかない論文との違いであり)、そういった意味で、この作品は極めて優れており、一読に値する。是非、読むことをお勧めする。

(追)ヴァージニア・ウルフの本は読んではいないが、何か影響を受けたような気がする。映画「めぐりあう時間たち」(主演:ニコール・キッドマン)が、そうだったように。