2018年7月14日土曜日

川上未映子著「ウィステリアと三人の女たち」

 「ウィステリア」とは、「藤」である。
 ネットで、藤について調べてみると、日本では古くから、フジを女性に、マツを男性にたとえ、これらを近くに植える習慣があった、とある。
 また、花言葉は、「優しさ」「歓迎」「決して離れない」「恋に酔う」、と書かれている。
 西洋では、「welcome(歓迎)」「steadfast(確固たる、しっかりした、忠実な)」、とも書かれている。川上未映子が、このようなことをどれだけ意識したかは分からない。
 しかし、少なくとも藤を女性性として意識したことは、確実だろう。収録された、4つの短編のすべてが女性の物語であり、「彼女と彼女の記憶」なのだ。私は、最後の「ウィステリアと三人の女たち」に、添え物のように出てくる夫しか、男性の登場人物を記憶していない。
 川上未映子の作品の全てを読んでいるわけではないが、私が読んだのは、少年少女を登場させる作品がほとんどであったような気がする。何か彼女に作風を変えさせる環境変化があったのだろうか?子供を産み、育てている事が影響しているとは思えない。キーワードは女性だ。
 四つの物語に共通するのは、主人公に影響を与える「彼女」の存在である。恋愛関係にあるわけではないが、なんだか心が繋がっているような関係に思える。
 最初の「彼女と彼女の記憶について」では、主人公(女性)が、小学生時代に親しかったが、その後、女の子と一緒に餓死した同級生、そして、そのことを教えた同級生(いずれも女性)。
 「シャンデリア」では、デパートのブランド店周りで毎日を過ごす主人公(女性)が出会った、ブランド品にまみれた老婆。
 「マリーの愛の証明」では、施設の校外学習で一緒に歩く、昔、主人公(女性)が愛していた女性。
 最後の「ウィステリアと三人の女たち」では、自宅の前の廃屋を見に来る女性。そこに住んでいた老婆と一緒に英語を教えていた英国人の女性教師。
 彼女たちの関係は、女性性に満ちていて、男性の私にはミステリーに満ちている。何かが起きそうで、あるいは少し何かが始まっているが、決定的なこと、これから起きるだろうことは、そこに提示されない。瞬間的にだが、韓国のキム・ギドク監督の映画の作風を思い出させられた。
 添付した文月悠光(ふづきゆみ:詩人、エッセイスト、歌人でもある?)の評論は、かなり正しい読み方を提示しているかもしれないが、いくつもの読み方ができるのが小説であり(一つの答えしかない論文との違いであり)、そういった意味で、この作品は極めて優れており、一読に値する。是非、読むことをお勧めする。

(追)ヴァージニア・ウルフの本は読んではいないが、何か影響を受けたような気がする。映画「めぐりあう時間たち」(主演:ニコール・キッドマン)が、そうだったように。

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