2021年1月14日木曜日

遠野遥著「改良」

 

 芥川賞受賞者の処女作で、第56回文藝賞受賞作である。本のキャプションにあるとおり、この作品の主人公は ”女になりたいのではない「私」でありたい/ゆるやかな絶望を生きる男が唯一求めたのは、美しくなることだった”

 主人公である山田は、美しくなるために女装をする(勉強する)。でも女になりたいわけではなく、デリバリーヘルスのカオリを自宅に呼んだり、カオリを思い出して自慰をしたりするし、また同僚のつくねと寝たいと思ったりする、男である。カオリの常連客になったある時、美しいと言ってもらいたくて、オフホワイトのニットに灰色のロングスカートで彼女を迎える。しかし、カオリは勘違いし、スカートを自分でまくれと命令し、タイツと下着をふとももまで下ろし、性器を触り続ける。そして、性器をいらないよね?とっちゃおうか?、と言う。それは、山田がまったく望んでいなかったことで、怒りを覚え、カオリの手首を掴み、投げ捨てるように振り払う。そして鏡が割れ、思わぬ事態に追い込まれる。

 こんなストーリーだが、外の風景も主人公たちの心象風景もほとんど語られない。流れるのはマンガのカットのようなできごとばかり。そう、これはマンガの原作とも言える作品、と私は思う。

著者は、芥川賞受賞の際に、いろいろなストーリーが浮かんできて、次々と作品を生み出すことができる、と話しているが、受賞作である「破局」についてもこの作品ほどではないが、すべては自分次第と思ってる主人公の日常行動を描き、二人の女声の間をうろうろする時代の風俗をメッセージ的に描いている、空虚な作品である。

 ただ、思うに、諸相が秒単位で変わるような今の世の中では、マンガのような映像を次々と描いた作品が読まれるのかも知れない。もはや美しい文章や難しい心象風景の描写など好まれず、必要ないのかも知れない。

2021年1月12日火曜日

斎藤美奈子著「中古典のすすめ」



 「中古典」とは著者斎藤美奈子の造語で、「古典未満の中途半端に古いベストセラー」を指すという。文学研究の世界では、「古典」とは上代から近世までの文学のことで、近代以降は「古典」とは呼ばないというが、現代人の感覚では夏目漱石や森鴎外は充分に古典だろう、と言う。

 「中古典」は歴史的な評価が定まっていない本で、「古典」に昇格するか否かは現時点では神のみぞ知るとも言う。本書では1960年代から90年代初頭までの計48冊を取り上げている。本人も書いているが、取り上げられた本は彼女の趣味が反映していることは否めないが、なかなかうまく選んでいると思う。

 本書の元になった文章は、紀伊國屋書店のPR誌「scripta(スクリプタ)」の連載「中古典ノスゝメ」である。2006年から14年間連載したらしいが、今回上梓するの当たって大幅に書き直したという。7月にあとがきを書いているが、新型コロナウィルス禍を考慮しての書き換えも認められた。


 斎藤美奈子という名前は知っていたし、面白そうな活動をしていそうだと思ってはいたが、朝日新聞の書評で読んだくらいで、まとまった本を読んでいなかった。今回読んで、なかなか面白いと思った。女性から見た考えも散見するが、余り読者の世代、ジェンダーを気にしていないような書きっぷりが、爽やかとも言える。

 この本の中では、取り上げられた本の批評以外に、似たような著作も取り上げられていて、同類の著作が俯瞰できる。

 著者は、取り上げた作品を、1)若者たちの生態を映す青春小説、2)「自立の時代」の女性エッセイ、3)反省モードから生まれた社会派ノンフィクション、4)懲りずに湧いてくる日本人論、に整理している。確かに、そのように思える。

 各作品の名作度と使える度を星印で3段階に表している。総じて、60年代には甘く、日本人論には厳しいように思えた。

名作度で星 3つ:

橋のない川、日本の思想、キューポラ、江分利満氏、白い巨塔、文明の生態史観、あゝ野麦峠、どくとるマンボウ、赤頭巾ちゃん、日本沈没、自動車絶望工場、兎の眼、桃尻娘、原発、悪魔の飽食、なんとなく、窓ぎわの

使える度で星 3つ:

橋のない川、感傷旅行、あゝ野麦峠、青春の蹉跌、どくとるマンボウ、自動車絶望工場、兎の眼、スローな、桃尻娘、原発、悪魔の飽食、窓ぎわの、見栄講座、極東


因みに私が見たり読んだりした作品は多くはない。

読書:日本の思想、わたしが・、されど、どくとるマンボウ、二十歳の、自動車絶望工場(?)、スローな(?)、四季・奈津子(?)、蒼い時、なんとなく、ノルウェイの(11作品、23%)

映画(ドラマ):キューポラ、江分利満氏、わたしが・、白い巨塔(ドラマも)、あゝ野麦峠(?)、青春の蹉跌(ドラマのみ)、日本沈没、ひとひらの雪、ノルウェイの(9作品)