2015年5月29日金曜日

イヴォンヌの香り

 今月初めの朝日新聞の書評欄でパトリック・モディアノの「地平線」について読んだ。面白そうだと思ったので、直ぐに図書館に予約を入れた。その時、この著者が昨年のノーベル賞作家であることを知った。また、ウィキペディアを見ると、「イヴォンヌの香り」の作者でもあった。「イヴォンヌの香り」は私の好きなパトリス・ルコントが映画化しており、当然の事ながら鑑賞済みである。ルコントの映画は何作か見ているが、それらの殆どはミステリアスな恋、というか、ちょっと秘密じみた恋の物語なのだが、「イヴォンヌの香り」はそれ程ミステリアスではなかったという印象があった(もっとも、昨年の暮れに見た「暮れ逢い」は本格的なラブストーリーだったが)。
 偶々であったが、スポーツジムの帰りに寄る本屋の棚に「イヴォンヌの香り」があったので、手にとってパラパラめくってみた。ルコントの映画を憶えていたわけではないのだが、何故かルコントの映画の内容とは違えるように思えた。だから、早速この作品を図書館で借りて読んだ。

 ふらりとジュネーヴに近い湖畔の避暑地に現れた十八歳の青年が、現地で女優だと称する女性を恋する不思議な物語である(筋書きについては、訳者のあとがきに要約されているので参照されたし)。
 青年はアルジェリア戦争の兵役逃れのためにスイスとの国境にやってきたのか、本名は何というのか、どんな素性なのか、父親と青年の過去の暮らしは本当の話なのか、イヴォンヌの友人の医師マントの本当の仕事は何なのか、やはりミステリアスな作品ではある。あらすじはともかく、ヴィクトール・シュマラ伯爵と名乗る青年になったつもりで、この小説の中でイヴォンヌとともに過ごしてみたいな、と思わせられる楽しい作品である。是非、一読される事をお勧めする。

2015年5月17日日曜日

対談 日本語と英語のあいだで(水村美苗、鴻巣友季子:すばる2015年5月号掲載)

 作家である水村美苗と翻訳家の鴻巣友季子との対談「日本語と英語のあいだで」(文芸雑誌「すばる」2015年5月号掲載)を読んだ。水村は小説家、評論家として活躍中であり、鴻巣は翻訳家の中でも著名である。
 水村は「續明暗」(漱石の未完小説「明暗」の続編)で世を賑わせた。当時、彼女は全くの無名であり、話題作りではないかと私は疑いの目で見ていたので、直ぐには読まなかったのだが、その後大分経ってから読んで、”目から鱗が落ちた”感じがした。漱石の筆致を思わせる作品であり、感激した。その後、「私小説」を読み、彼女が一発屋ではない事を確認した。今は彼女のファンであるが、それ以降、「日本語が亡びるとき」しか読んでいない。
(閑話休題)
 この対談は、エミリー・ブロンテ作「嵐が丘の第九章及び第十五章を水村が翻訳し、鴻巣の翻訳(新潮文庫)と比較しながら話しを進めている(因みに、水村が書いた「本格小説」は「嵐が丘」の翻案だという。近々、両方読んでみようと思う)。従って、やや専門的な面があり、一般人が読むには面白くない点も多々あった。
 私は、以下の話しに興味を持った。
水村 (前略)欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたかのような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文のことを指す、ということですね。(中略)周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。
鴻巣 だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。
*この論議を読んで、私が翻訳物を長い間読まなかった原因が判明した。この日本での「透明な翻訳」が原因である。
鴻巣 (前略)水村さんはよくご存じだと思いますが、T・S・エリオットは「伝統と個人の才能」という有名なエッセイでこういうことを言っています。新たな芸術作品が生まれるさい、過去の作品との比較対照による評価を受けるなら、全く同じことが同時に過去の作品にも起きる、と。影響とは過去から現在に対してという方向性だけでなく、現在から過去へも遡行するのだと言っています。
(注:鴻巣は、「嵐が丘」を翻訳する前から「本格小説」を読み始めていて、翻訳中も同時進行で読んでいたという。そして、それがエリオットの言っていることの様に、翻訳した「嵐が丘」が「本格小説」から影響を受けたのではないかと言っているのである)
 
 また、二人の論議を読んで、
1)鴻巣はプロの翻訳家としてかなりの分量を短時間で訳さなければならないので、(狭い範囲の)前後の繋がりだけを重視して翻訳しており、その翻訳もいわゆる日本での「透明な翻訳」になっているのではないか
2)水村の場合は個人的に読んでいるので、全体を見て翻訳している。しかも彼女の専門はフランス文学であり、ラテン語系フランス語経由の借用が多い、観念的、抽象的な19世紀の英語の語句を訳すのは得意で、そういった面からも欧米における「透明な翻訳」になったのではないか
と思った。

 水村は12歳に渡米し、米国の大学院の仏文科の博士課程を修了。その後、三つの大学で講師、客員助教授、客員教授を歴任し、フランス語も英語もお手の物のようであるので、鴻巣よりも一日の長がある、と私は考える。

2015年5月16日土曜日

多和田葉子訳 カフカ作「変身(かわりみ)」

 多和田葉子翻訳のカフカ作「変身(かわりみ)」(文芸雑誌「すばる」5月号掲載)を読んだ。
 多和田葉子はドイツ在住で、ドイツ語と日本語で小説を書いている。もちろん、ドイツ語は堪能であり、彼女の小説が好きな私はどんな風に料理されているのか興味があった。と、言っても昔読んだ「変身(へんしん)」の内容は覚えていない。
 余談だが、確か新潮文庫か何かで緑色の表紙だったような気がする。今も所有している筈だが、本棚の下の方の段の奥の方に置いてあって見つける気もしない。
 この作品は有名で多くの人が読んでいるだろうから、私があらためて解説する必要もないだろうし、それだけの力も私にはない。

 外回りの営業マンであるグレゴールは、ある朝眼を覚ますと虫獣(多和田の訳に依れば、”生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫”)に姿が変わっている。そこから、妹、父母、会社の支配人、3人の間借り人、女中と繰り広げる日々の騒動をこの作品は描いている。最後にその虫獣が亡くなる事で父母、妹に平和が訪れるのであるが、一体にしてこの変身譚は何を意味し、何を目的に書かれたのであろうか?
 多和田は、グレゴールは「共同体のために自分を生け贄にし、過労死に向かっていたが、汚れた姿に変身することで自由になった。その代わり、家族や社会から見捨てられ、生き延びることができなくなったわけだ。」、と解説する。「共同体」とは会社や家庭のことを指すのだろう。

 また、「訳しながら、「引きこもり」とか「介護」についても考えざるを得なかった。」、とも書いている。そして、「機能すべき社会にとって異物、邪魔者になってしまった側の視点に読んでいる側がゆっくりと移行していけるような。そんな文体に翻訳してみたいという願いが生まれてきたが実現はできなかった。」、と結んでいる。
 多和田の訳は、特別な変身譚という事を感じさせないほど淡々としていて、スムーズに読む事ができた。これは、ひとえに彼女がドイツに住み、ドイツの文化・歴史を良く知っていて、ドイツ語の表現を良く理解している事から来る文章に依るものと感じた。