作家である水村美苗と翻訳家の鴻巣友季子との対談「日本語と英語のあいだで」(文芸雑誌「すばる」2015年5月号掲載)を読んだ。水村は小説家、評論家として活躍中であり、鴻巣は翻訳家の中でも著名である。
水村は「續明暗」(漱石の未完小説「明暗」の続編)で世を賑わせた。当時、彼女は全くの無名であり、話題作りではないかと私は疑いの目で見ていたので、直ぐには読まなかったのだが、その後大分経ってから読んで、”目から鱗が落ちた”感じがした。漱石の筆致を思わせる作品であり、感激した。その後、「私小説」を読み、彼女が一発屋ではない事を確認した。今は彼女のファンであるが、それ以降、「日本語が亡びるとき」しか読んでいない。
(閑話休題)
この対談は、エミリー・ブロンテ作「嵐が丘」の第九章及び第十五章を水村が翻訳し、鴻巣の翻訳(新潮文庫)と比較しながら話しを進めている(因みに、水村が書いた「本格小説」は「嵐が丘」の翻案だという。近々、両方読んでみようと思う)。従って、やや専門的な面があり、一般人が読むには面白くない点も多々あった。
私は、以下の話しに興味を持った。
水村 (前略)欧米における「透明な翻訳」とは、もともと自国語で書かれたかのような訳文を指す。それに対し、日本では、逆に原文が透けて見えてこれは翻訳だとわかるような訳文のことを指す、ということですね。(中略)周縁的な日本では、翻訳があって当然で、翻訳の文章は、普段使っている「日本語」とは違って構わないという大前提がありますよね。
鴻巣 だから、あえて引っかかりのある異化翻訳もできます。それが日本での「透明な翻訳」です。
*この論議を読んで、私が翻訳物を長い間読まなかった原因が判明した。この日本での「透明な翻訳」が原因である。
鴻巣 (前略)水村さんはよくご存じだと思いますが、T・S・エリオットは「伝統と個人の才能」という有名なエッセイでこういうことを言っています。新たな芸術作品が生まれるさい、過去の作品との比較対照による評価を受けるなら、全く同じことが同時に過去の作品にも起きる、と。影響とは過去から現在に対してという方向性だけでなく、現在から過去へも遡行するのだと言っています。
(注:鴻巣は、「嵐が丘」を翻訳する前から「本格小説」を読み始めていて、翻訳中も同時進行で読んでいたという。そして、それがエリオットの言っていることの様に、翻訳した「嵐が丘」が「本格小説」から影響を受けたのではないかと言っているのである)
また、二人の論議を読んで、
1)鴻巣はプロの翻訳家としてかなりの分量を短時間で訳さなければならないので、(狭い範囲の)前後の繋がりだけを重視して翻訳しており、その翻訳もいわゆる日本での「透明な翻訳」になっているのではないか
2)水村の場合は個人的に読んでいるので、全体を見て翻訳している。しかも彼女の専門はフランス文学であり、ラテン語系フランス語経由の借用が多い、観念的、抽象的な19世紀の英語の語句を訳すのは得意で、そういった面からも欧米における「透明な翻訳」になったのではないか
と思った。
水村は12歳に渡米し、米国の大学院の仏文科の博士課程を修了。その後、三つの大学で講師、客員助教授、客員教授を歴任し、フランス語も英語もお手の物のようであるので、鴻巣よりも一日の長がある、と私は考える。
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