2017年7月27日木曜日

桐野夏生 著「デンジャラス」(2017年6月初版)

 女性に非常に(異常に)興味を持っている、高齢の大作家のどろどろした性の実態が暴かれているのかと思って期待していたのだが、違っていた。これは、女性作家だからこそ書ける、谷崎王国(谷崎を取り巻く女たち)の女の闘いの物語である。物語を進行するのは、谷崎の最後の妻である松子の妹、重子
 第一章、第二章は、淡々と語られるが、第三章「狂ひけん人の心」に到って、重子も冷静さを欠いていく。「瘋癲老人日記」の基となった、松子の連れ子である田邊清一の嫁、千萬子と谷崎の速達による手紙の交換が始まり、谷崎が千萬子の言いなりに物を買い与え、最後には家まで買い与えてしまうからだ。
 最後に勝利するのは誰か。それは、読んでみて、それぞれが感じるものだから、ここでは明らかにしない。

 私は、「細雪」や「瘋癲老人日記」も、巻末に記された主要参考文献の一つも、読んでいない。しかし、これは、谷崎と取り巻く女性たちの間の真実のできごとや姿を暴いたものではなく、かなりフィクションを交えていると私は思う。余りにも千萬子を悪く描いているにもかかわらず、著者が、巻末の謝辞に、「この本を書くにあたりまして、渡辺千萬子さん、高萩たをりさんには、大変お世話になりました。(後略)」と書いているからだ。
 期待はずれではあったが、はらはらどきどきしながら、一気に読むことができた。エンタテイメントとして読めば面白い作品である。女たちの心理が良く分かる、女性の方に、特にお勧めである。

2017年7月17日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第八回)(「群像」2017年7月号掲載)

<第八回のあらすじ>
 今月は、アルルで鮨職人をしているSusanooの、生い立ちから鮨職人になるまでの経緯が語られている。それだけだ。これからの筋につながるような、特別なトピックスはない。しかし、SusanooHirukoと同じ国から来たようである事から、新しい展開の端緒になる章だろう。
 Sussanooは、福井から造船技術を学ぶためにドイツ北部のキールにやってくるが、サッカー競技場で開かれた闘牛の会場で見かけた、真っ赤なドレスを着た姿勢のいい女性に惚れてしまう。彼女を追って、アルルまで来る。苦労して探し当てた家で、大男に投げられて大怪我をしてしまう。キールに戻る気にもなれず、アルルのレストランでアルバイトをしている時に、鮨職人として雇われる。このようにして、新たな登場人物、Susanooが紹介される。

延江 浩 著「愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家」


 新聞の紹介記事(書評)だったか、宣伝を見て、面白そうだったので図書館で借りて読んだ。
 AMAZONの内容紹介は、以下の通りである。
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戦前最強の思想的家柄・頭山家と戦後最強エンタテイメントの家柄・松任谷家という「ネオ名家」を軸に織りなす決定版戦後史。
「昭和」の主音(キーノート)とは何だったのか。
ユーミンも知らなかった、両家の歴史が明らかになる。
昭和という時代、面白い出来事、場所、人の近くには決まって「松任谷家」の人々がいた。そして、昭和をつらぬく精神性の基盤には決まって「頭山家」の信念があった。
「松任谷家」の「発明」精神と、「頭山家」の「尊皇」精神ーー。
「昭和」を、この上なく面白くスリリングな時代にした両家のハイブリッドの軌跡を描き出す。
金を無心し、そのためだけに生きる輩が大半の中、その精神の気高さが光る、松任谷家と頭山家。エスプリで時代を切り拓き、大きな足跡を残した彼らは、群れることをせず、あくまでもインディペンデントでアマチュアだった。
優雅とは俗から離れてゆとりがあること。
頭山家と松任谷家は、恍惚と絶望が絶えず交差する現代史の中でさまざまな試練を与えられながらも、確かな目で文化を産み、選び、育ててきた。真に日本人らしくある、といことはどういうことなのか? 「優雅なアマチュア」でい続けることが、これからの日本人にとっての生きる指針になるだろう。
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 松任谷正隆の伯父・健太郎の妻、尋子が頭山満の孫になる。
 千駄ヶ谷の松任谷ビルの地下には、エキゾチカ(易俗化)という尋子夫妻が経営する会員制のクラブがあった。また、川添梶子夫妻が経営する飯倉片町にあったレストラン・キャンティ。そこには、多くの文化人や芸能人、政治家などが現れた。
 本書は、松任谷正隆につながる音楽関係者、例えば、「はっぴえんど」の面々、加藤和彦、「キャラメル・ママ」の面々などや、正隆のいとこになる画家でタレントの松任谷國子につながる人々、また頭山満を訪ねてきた人々の事が、成書に書かれている事や主に國子の姪にあたる玉子から聞いた事などから、書き綴られている。
 内容は、上記の紹介記事に書かれているほど深みのあるものではなく、大変がっかりした。所詮、日々、生きるのにあくせくしてきた、私のような庶民には関係のない、ゆとりのある人たちの世界が描かれているだけだ。
 しかし、暇つぶしに読む、軽い作品と考えれば良く、スムーズにかつ面白くは読めた。
 ただ、頭山満をフィクサーとして手放しで称賛したり、「フォークル」の「イムジン河」発売中止の理由を朝鮮半島分断を歌った内容だから、と間違った事が書かれていたり、と問題点もある

 著者のノンフィクション作品に関する姿勢にも疑問が残る。

2017年7月5日水曜日

武田 徹 著「日本ノンフィクション史  ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」(中公新書)


 著者は、”はじめに” に書いている。「小説中心の文学史の本ってそれこそ掃いて捨てるほどありますが、そう言えば、ノンフィクション史の本ってありませんよねー。」。かつて、「ノンフィクション作家」の肩書きで呼ばれていたこともある著者が、この本を書く事になったのは、上記の事が動機らしい。

 この本は、表紙の裏に書かれているように、記録文学、ルポルタージュから初めて、ノン・フィクション、ニュージャーナリズム、私ノンフィクション、そしてケータイ小説、リテラリー・ジャーナリズム、アカデミック・ジャーナリズムに至るまで、その定義と実例を挙げて論じている。しかし、単なる解説にとどまらず、その時々の社会状況を踏まえて、(ノンフィクション)作品がどう変わっていったかをたどっているのが良い。一読に値する新書である。