2020年12月25日金曜日

金原ひとみ「アンソーシャル ディスタンス」

  『コロナ禍の現在を先取りしていた作品』、と朝日新聞に書かれていたので、図書館で雑誌(新潮 2020年6月号)を借りて読んだ。

 最近の金原の作品は特にそうなのだが、自堕落な生き方をしている若い人たちを描いているものが多い。この作品も、積極的に生きていない、また死のうともしない男女大学生二人のダラダラした生活や会話から成り立っている。女・沙南の堕胎手術のシーンから始まる。恋人・幸希との子供である。時はコロナ禍。幸希の母は繊細で過敏であり、外出から帰ってきた幸希に対してうるさく手洗いなどを要求する。息子に対して過干渉である。夫が単身赴任で不倫をしていることでイライラしていることもあるらしい。

 二人は沙南がパパ活で得た金で飲み食いしたり、ラブホでセックスする。

 幸希は自分の考えを持たず、相手が気にいるように生きている。恋人の沙南に対してもそうであり、心中しようと言われて、反論もせずに鎌倉に3泊4日の死出の旅に出る。その元手も祖父から得た就職祝いの10万円である。

 結局、幸希の曖昧な話しで沙南の気持ちは揺らぎ、心中はしないで帰ることになる。

 若者二人の取り留めのない、どうでもいいような生活や会話で構成されているのではあるが、ここには今の社会の暗さや、不平等への不満が溢れているような気がする。ただ、金原ほどの練達の作家であるならば、もう少し書き様があったような気がする。次の作品に期待したい。

2020年10月27日火曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

 

 


 内田樹氏が9人の論客をまとめて作ったと思われる本である。

 反知性主義という事をそんなに多くの人が知っているとは思われない。かくいう私も言葉しか知らなかった。しかも、この本を読むまでは、知性が足りない人が陥る態度と間違った理解をしていた。


 反知性主義の定義は、人それぞれ違うだろうが、内田樹が書いたものを読むと理解しやすいだろう。内田は、時に具体例を引きながら下記のように定義している。


*反知性主義という事の理解のために、先駆者であるホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」を引用している。

 ”反知性主義は、思想に対しての無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。(中略)指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。


*反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。(中略)「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。


*知性というのは個人においてではなく、集団として発動するもの(この本では下線部分に傍点)だと私は思っている。知性は「集団的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。


*ホーフスタッターは反知性主義者の相貌を次のように描き出している。反知性主義の「スポークスマンは、概して無学でもなければ無教養でもない。むしろ、知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。(中略)自分たちが注目する世界の問題について、真剣かつ高邁な目的意識をもっている」


*反知性主義を決定づけるのは、その「広がりのなさ」「風通しの悪さ」「無時間性」だということである。(中略)反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。


 内田はまとめとして、以下のように書いている。

 私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。


 内田の小論を読んだ後の私の理解では、「知性的な人」とは他人の考えを真摯に聴き、自分の知的な枠組みをそのつど作り替えている人である。また、その「知性」は、同時代に影響を及ぼすだけではなく、過去を振り返って検証され、また未来において生かされるものであるだろう、ということである。


 この本が出版されたのが2015年であるせいかも知れないが、反知性主義者の代表として、平川、小田嶋両氏は元大阪市長の橋下徹氏を挙げている。

(尚、時間的な制約もあり、想田和弘氏、鷲田清一氏の小論は未読)






中村文則著「R帝国」


 以前より中村文則という作家に興味があった。近作「逃亡者」が評判になるに及び以前の作であるこの本を読む気になった。しかし、残念ながらまるで漫画(劇画)の(原作の)ようなシーンのつなぎ合わせで、文章に深みがなくストーリーもありきたりで、第一部を読んだ時点で読むのを止めた。第二部まで読めば違った感想になるかも知れないが、現時点ではそういった評価になった。評判の「逃亡者」に期待したい。

雑誌の書評評者:江南亜美子(週刊文春 2017.10.05号掲載)

 絶対権力の「党」が支配する国で、人々はどのようにふるまうのか

トランプ政権の誕生あたりからアメリカでは、オーウェルの『一九八四年』が再評価され、その機運は日本にも飛び火した。不可視の絶対君主〈ビッグ・ブラザー〉による徹底された情報統制と史実の改竄は、今日の日本の言論空間をどこかほうふつさせる。フィクションの力でもって、読む者に危機感をもたらすのがディストピア小説だとすれば、『R帝国』もその流れを汲む近未来SFだ。

 物語は島国の「R帝国」が開戦した日から始まる。絶対権力の「党」が支配するこの国では、国民は批判的な意見を表明するなり張り巡らされた集音装置により検挙され、しばしば謀反者は公開処刑される。人々は、高度な人工知能を搭載した「HP(エイチピー)」と呼ばれる端末から情報を得ており、その管理もまた「党」の得意とするところだ。

 戦争には自衛という大義名分が必要だが、この戦争は何かがおかしい――。二人の男が、政府の欺瞞と真の目的に気づく。一人は会社員の矢崎。もう一人は形骸化した野党の幹部議員の秘書である栗原だ。それぞれ、女性兵士アルファ、秘密組織のサキと出会うことで、巨大な相手に無謀な戦いを挑むはめになる。

 恐ろしいのは、二人の必死の奮闘をあざ笑うような「党」の余裕である。人々の行動原理や深層心理を知悉する彼らは、例えば人口の八割に及ぶ貧困層の不満が上でなく、最下層の移民に向くよう情報をコントロールする。団結ではなくあくまで分断へ。さらには薬物投与によってつらい過去の記憶を抹消した従順な市民としての第二の人生まで、提案してみせるのだ。矢崎は言う。「僕は自分のままで、……自分の信念のままで、大切な記憶を抱えながら生涯を終えます。それが僕の……プライドです」

 果たして、不都合な過去や真実を隠蔽する見せかけ上の安寧は、国民をどこに先導するのか。大義よりも「半径5メートルの幸福」に固執し、「真実」から目をそらし続ける大衆、その集団的な認知バイアスこそが、悪夢的な全体主義をさらに後押しするのだと、読者は気づかされるだろう。最も手ごわい敵は、結局人間の本能に組み込まれた、恐怖心と暴力性なのだ。

 本書はいわば、ヒーローなき戦争小説である。作中、『ルワンダ虐殺』や『沖縄戦』という架空の国の物語がネット上のバグとして現れるのだが、統治者の一人は「向こうの方が現実で、我々の方が現実じゃない可能性だってあるじゃないか」と言う。裏返せば、SFにみえる本書に現実が潜んでいるのかも。著者の警鐘にしばし耳を傾けられたし。

2020年9月21日月曜日

第163回(令和二年上半期)芥川賞受賞作 高山羽根子「首里の馬」


 どうやら今回は、順調に高山と遠野の二作に決まったらしい。”らしい”、というのは、選評をざっとしか見ていないからだ。以前は詳しく読んだりしていたのだが、選から漏れた作品が載っておらず内容をチェックできないので、選評を読んでも充分には理解できないからだ。なぜ受賞した作についての選評だけではなく、最終選考に残った5作すべてについての評価を載せるのだろうか。載せるのであれば、それら作品も掲載すべきだと思うのは私だけだろうか?
(閑話休題)
 あらすじ、と言えるほどのものではないが、下記のような内容である。
 資料館でのデータ整理、クイズを出す仕事、台風で庭に迷い込んだ宮古馬についてのエピソードが並列に綴られる。しかし、これらの間の結びつきは何も感じられない。選者の平野啓一郎もその点を指摘している。
 小説は論文とは違うので、読者がいかようにでも解釈して良いのだが、どうも最近の作品には作者が何を書きたかったのかわからないものが多い。この作品もそうである(遠野の作品についても、そうであるが)。昔の小説を読むように、処世術を学ぼうというつもりはない。しかし、作家が何を訴えたいかは知りたい。
 選者の吉田修一は次のように言っている。”候補に挙がってくるたび、作品は面白いのに、この作者が何を書きたいのか分からず首を捻っていましたs。今作ではその何かがくっきりとしたような気がします。高山さんはおそらく「孤独な場所」というものが一体どんな場所なのか、その正体を、手を替え品を替え、執拗に真剣に、暴こうとする作家なのだと思います。”
 主人公がクイズを出す相手が居るのは、空の上(宇宙)だったり、海の底だったり、戦地で捕らえた敵を閉じ込めておくシェルターの中であったりする。 相手が勝手に話したことなので、それが本当かは分からないが、たしかに孤独な場所ではある。彼らは、そこで淡々と過ごしているさまが感じられる。吉田が言いたかったのは、こんな単純な話ではないだろうが、その一端ではあるだろう。
 川上弘美は、この作品を一押しした(○をつけた)らしい。理由は、”静かな絶望と、その絶望に浸るまいという意志に、感じ入りました。”、と書いている。
 奥泉光は、”孤独なもの、孤立したものへの愛惜を、リアリズムを基本に、そこからはややずれた虚構でもって描いた一篇で、世界のあらゆる事象が、どんなにつまらなく見えるものであれ、かならず存在の痕跡を残すのだとの思いが細部から匂い立つ。”、と受賞作にふさわしい佳篇だと評価している。
 こんな事柄を表わす場所として作者は沖縄の首里を選んだ。先の戦争で、自分たちが住んでいた土地を更地のようにされてしまった沖縄。祖国から見放され、今も米国の植民地のように自由に使用されてしまっている沖縄。毎年何度も台風に襲われ被害を受けても立ち上がる沖縄。失われたものが多くても、あったという存在が全くなくなるわけではない。それを意識して作者は沖縄という場所を選んだのか?それは彼女に訊かないとわからない。いずれにしても、読者の興味を引きつける作品であることは間違いない。一読に値する作品だと思う。
<あらすじ>(AMAZONから) 
 沖縄の古びた郷土資料館に眠る数多の記録。中学生の頃から資料の整理を手伝っている未名子は、世界の果ての遠く隔たった場所にいるひとたちにオンライン通話でクイズを出題するオペレーターの仕事をしていた。ある台風の夜、幻の宮古馬が庭に迷いこんできて……。世界が変貌し続ける今、しずかな祈りが切実に胸にせまる感動作。

2020年7月29日水曜日

井波律子と高橋和巳と雑誌『対話』

 井波律子が今年の5月に亡くなった。私は中国文学についての素養もないし、好きでもないが、彼女の名前は知っていた。井波の名前を見るたびに高橋和巳を思い出していた。井波は和巳に教えを受けたことがあり、共著があると記憶していたからだ。
 共著としては、吉川幸次郎と小川環樹編集の中國詩人選集(岩波書店刊)13『王士禛』及び(あるいは)15『李商隠』(いずれも高橋和巳注)が考えられた。しかし、手元にある本を見ると、第一冊発行はそれぞれ昭和37年(1962年)、昭和33年(1958年)であり、井波は未だ大学には入っていなかった。
 井波は1944年生まれであり、和巳が大学を辞した1969年3月には博士課程であった。だから接点はあった。

 井波の著作に手掛かりはないかと、一般的な読み物である『中国文学の愉しき世界』(岩波書店、2002年刊)を当たると、「高橋和巳さんのこと」という一文があった。”はじめてお目にかかったのは、いまを去ること三十八年、一九六四年春のことである。わたしは京大文学部三回生として、中国文学を専攻するようになったばかりだった。”、とある。吉川研究室の新入生歓迎会の二次会の祇園のカフェに和巳がフラッと入って来たらしい。その後、井波が書いた「円地文子論」を読んだ和巳から、自宅に来るようにと誘われ、吹田の公営住宅を訪ね、たか子夫人も交えていろいろな話をし、楽しい時間を過ごした、という。
 その後、和巳は明大助教授として東京に行ってしまったが、吉川教授の定年退官に伴い、後任助教授として六七年秋に着任する。その折に、同人雑誌『対話』に誘われ、井波は参加したという。それならば、手持ちの雑誌『対話』で井波の名前を見つけ、頭に刻みつけたのかも知れなかったのかな、とも思った。女性の中国文学者などは、当時は珍しかったからだ。
 『対話』6号には、井波の「「文心雕龍」論」が載っていた。しかし、中国文学の素養がないので、私が読んだという形跡も記憶もない。7号のシンポジウムは「エロティシズムと文学」であり、井波も参加している。読んだ形跡はあるが、井波の発言は一回であり、印象に残るものではないと思われる。

 一方、手持ちの雑誌『國文學』第19巻第5号(昭和49年/1974年4月号)『特集 井上光晴と高橋和巳ー苦悩と告発の文学』には、井波が「高橋和巳と中国文学」を寄せていた。
 

 和巳の中国文学研究を、李商隠らを論じた個別作家論と六朝美文論などの総論的考察の二つの系統に分けることができるという。
 和巳が研究対象に選んだ文学者たちは、みな深く根源的なところで、どこか彼自身に似ているという。例えば、潘岳と江淹はその過剰な感傷性において、陸機と顔延之は何よりも論理を重視する観念性において、そして李商隠は、遂に現実をも文学視するにいたる、文学への過度の執着によって。
 和巳は「六朝美文論」の中で、美文の特質として、まず第一に<惜しみない個人の感情の強調>なる要素を挙げ、第二の特色として<顕著な装飾性>を、第三には<人間の総体的な論理と文章の定型的リズムの合体というもっとも優れた特質>を挙げているという。
 これらの研究が、自身の小説に固有な文体ー語り口、を発見し形成していくうえに、非常に大きな影響を与えたものと考えられるという。一方、和巳は同じ絶望を語るにしても、六朝美文と同様饒舌に比喩等の技法をほとんど乱用しながら、それとの逆の地点から、これでもかこれでもかと、醜悪さ・悲惨さ・むごたらしさといった負の要素を畳みかけていくことによって、そうした心的状態を強調しようとするのである、という。
 この後段で、井波は『憂鬱なる党派』、『日本の悪霊』、『悲の器』、『堕落』の文章をを具体的に論じている。そして、「潘岳論」、「江淹の文学」、「陸機の伝記と文学」を論じながら、和巳の中国文学研究が<論理>と<感傷>の間を行きつもどりつしていると述べる。また、陸機評価に士大夫の小説を目指した和巳の夢と抱負の投影をみてとることは容易であろうと書く。
 多分、私はこの一文を読み、井波と和巳の繋がりを感じ取ったのであろうと思われる。
(この一文は『文芸読本 高橋和巳』(1980年、河出書房新社刊)に転載されている)
 

 ちなみに、「中国文学の愉しき世界」に編まれている「高橋和巳さんのこと」は読んだ記憶がなかった。他の文章はどこかに書いたものらしいが、この文章のみ書き下ろしであるらしい。ならば、読んだことがなかったのは不思議ではない。

 書き忘れたが、井波はこの文の後段で、”お通夜には行けなかった、高橋さんが亡くなられたことを確認するのが怖かったからだ”、と言う。かくも井波の心の中には和巳が入り込んでいた。もちろん、当時、私を含めて多くの若者(学生たち)の心の中にも和巳は深く入り込んでいた。

2020年7月13日月曜日

金原ひとみ 著(初エッセイ)「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

 
 

 初めて読んだ金原ひとみの作品は、芥川賞を受賞し雑誌に掲載された「蛇にピアス」であった。綿谷りさの「蹴りたい背中」とのダブル受賞であったが、金原の作品に興味を持った。読んだときの印象は、もう覚えていない。その後、映画を観た時、かなりの衝撃を受けた。この作品の印象から、多作になるとは思えなかったが、その後、順調に作品を出している。むしろ、綿谷をはじめとした同年代の作家に比べれば、圧倒的に多い方だろう。
 今回、このエッセイを読んで、多作の理由が分かった。彼女にとって、生きづらい社会からの救いは書く事と恋愛だと言う。
 この作品が初めてのエッセイという。ウェブ連載だったからだろうが、同じようなイメージの内容が繰り返される。やっつけ仕事だったからかも知れない。この作品の中に、締切りに追われる彼女の姿が描かれている。
 内容は、友達との会食、といっても主に痛飲であり、会話は相手の愚痴で、主に不倫の話。そして、金原自身のこの社会での生き辛さが語られる。
 作家が書くエッセイの全てが実生活だと言えるのだろうか?虚もあるだろう。別に実でなくても面白ければ良いのだから。しかし、この作品は、ほとんど実のような気がする。彼女の小説よりも人間が表されているからだ。書いていないことはあるだろうが、嘘は書いていないような気がする。
 彼女の書く小説が好きでよく読むが、彼女の住んでいる世界には馴染めない。性や年齢の違いもあるが、自分を虐めすぎる性格にもよる。特にこのエッセイは、読んでいて辛かった。付箋を付けたところが、添付のように8カ所もあった。
 彼女には、自ら死なないで欲しいと思う。でも最後のページに、「この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。」、と書かれていたので安心した。しかし、その後に、「でも夫に殺されたいと願うことが増えた。」、と書かれているのには唖然とした。でも、このエッセイに書かれているように、小説と恋愛があれば、生き続けるだろう。

朝日新聞・読書好日:乖離の中に存在する自分 






2020年5月25日月曜日

平山周吉著「江藤淳は甦える」

 B6版で763頁という大部な本である。
 文芸雑誌「文學界」(文藝春秋社発行)に連載中で、江藤の死で中断した「幼年時代」を担当していた平山周吉という方が纏めた評伝である。つまり平山氏は最後の江藤淳担当であった人である。そして、仕事として江藤に会った最後の人になる。会ったのは江藤が亡くなった当日、死のわずか数時間前の事だったという。「幼年時代」連載第二回の原稿をもらっていた。
 江藤淳は1999年(平成11年)7月21日午後7時半頃、鎌倉の自宅の湯船で左手を包丁で傷つけ、自ら「処決」して、この世から去った。享年66歳であった。
 江藤が死んで20年が経った。その間、リーマンショックがあり、原発事故まで引き起こした東日本大震災があり、IT革命があり、新自由主義が定着し、貧富の差が劇的に増大した。今の世の中を見た時、江藤はどう思い、どう行動するのか知りたいものだが、それはもう叶わない。今生きていれば87、88歳。未だその可能性はあった。
 このブログを読む人であっても、江藤淳を知らない人もいるだろう。一番目立った活躍をしたのは、昭和30年代から昭和40年代である。当時は、大江(健三郎)が文壇の先頭として注目されていた時代で、大江ー安部(公房)の時代とか、大江ー開高(健)の時代とか、大江ー江藤(淳)の時代とか言われたもので、その評論家の江藤である。

 文字数が多いこともさることながら、内容も盛りだくさんで質も高い、この評伝の解説を書くことなどは、到底、私の手に負えるものではない。前置きが長くなったが、このブログでは、本を読み終わり、じっと考えた時に浮かんだイメージ(感想)を書くこととしたい。
 その前に、また余分な話だが、私がなぜこの評伝を読んだかについて述べたい。一言で言えば評伝が好きだからである。評伝は、その人の生き方が語られているからである。時代時代で、生きる選択肢は変わるかも知れないが、一生を見てみれば、その差はそんなに大きいものとは思えない。自分で考えた、あるいは他人が考えた指針に沿って歩き始め、そして壁にぶち当たり、予期せぬ方向へ向かうも、必死に自ら手探りで道を探し、最後の地点まで辿り着く。得られた地点は、後悔があったとしても、その人が選んだ地点である。運が悪いとか、実力が及ばなかった事があったとしても、それがその人の最終地点である。その必死に自ら手探りで道を探して行く生き様に何かを読み取りたいので、私は評伝を読む。
 江藤の代表作といえば、「(決定版)夏目漱石」、「作家は行動するー文体について」、そして「小林秀雄」、「成熟と喪失ー”母”の崩壊」、「漱石とその時代」、「一族再会」、「海は甦える」など数多くある。
 ただ私は江藤の良き読者ではないだろう。一つの著作も読んでいない可能性さえある。本棚には、裏扉に” ’67.10.23仙台・古本屋にて”と書かれた中身が綺麗な単行本の「成熟と喪失」(初版発行ー昭和42年6月5日、再販発行ー昭和42年7月20日)が一冊ある。紐状のしおりが裏扉に挟んであるので、私の習慣から考えれば読んでいることになるが、読んだ記憶がまったくない。安岡章太郎の「海邊の光景」や小島信夫の「抱擁家族」、遠藤周作の「沈黙」、吉行淳之介の「星と月は天の穴」、庄野潤三の「夕べの雲」、「静物」など、いわゆる第三の新人作家の作品を対象にして論じているので興味を持ったのかも知れない。私は高校時代に庄野の作品などを好んで読んでいたからだ。

 江藤が注目を浴びたのは、夏目漱石論であるが、大江健三郎や石原慎太郎などと「若い日本の会」を結成し、1960年の安保条約改定に反対を表明したことで一躍時の人となる。しかし、その後、徐々に保守に回帰していき、最後は戦前の日本を理想として活動していく。
 江藤は、中学時代から頭脳明晰で、知性に溢れ、自ら恃むところ多く、次々と俊才と交わり、ある時は指導を仰ぎ、ある時は果敢に論戦し、そして対立し、離れて(あるいは離れられて)いく。例えば、主任教授(で詩人)の西脇順三郎、埴谷雄高、小林秀雄、大岡昇平、平野謙、本多秋五、花田清輝、大江健三郎、吉本隆明。自ら恃むところ多ければ、当然の事として孤立していく。寂しくはなかったろうが、(真の意味で)孤独であったろう。慰めは最愛の妻慶子と愛犬との生活であっただろうが、その慶子にでさえ満足できず愛人を作っている。二人は江藤の自死の半年ほど前に相次いで(一週間程度の間隔で)亡くなってしまっている。それが江藤の自死につながってくるのだろうが、直感では鬱になったのではないかと思われる。一方、小さいときから近くに感じていた死への誘いを考えれば、自死は必然であったとも思われる。幼き日の母の死、繰り返す結核、親友山川方夫の事故死。学生時代には自殺をはかっている(未遂)。 
 例えば、日比谷高校3年の時に提出した「行動特徴」の「安定感」という項目で、1年間の療養生活についての経験を語り、「ぼくは、自分の中にある「死」のことさえ考えさへすればいいことを知った。「死」は「生」の裏がわで育ちながら、「生」をいよいよ豊かにする陰影である。・・・「生」は、・・・黒い「死」の背景なしには成立しないものなのだ・・・ぼくはこう考えることによって、充実した安定の中にやすらぐことが出来る」と書いた時、例えば、私が愛して已まなかった金鶴泳の自殺について、「私は金氏が、「作家活動に挫折」して世を去った、などどいう俗説を少しも信じない。処女作のころから、金鶴泳氏の文学は、生と死とのあやうい均衡の上に成立する静かな諦念をにじませていた。おそらくこの均衡の針が、ほんの一目盛だけ死の方に傾いたのだったに相違ない。・・・」と書いた時、江藤の頭の中では死と生が背中合わせになっていたのだろうと思う。そして生がなくなり死が現れた。

 上に、江藤は「徐々に保守に回帰していき」と書いたが、それは間違っているだろう。江藤は、早死にしなければ海軍大臣になっていただろう、祖父・江頭安太郎を尊敬し、いずれは外交官か官僚、学者などになり、国のために力を尽くしたいと小さい時から思っていたのだから、強い日本であった戦前を目指すのは当たり前であった。無条件降伏も新日本国憲法も安保条約も到底許せないものだったのだと思われる。江藤は徐々に政治にも近づき、佐藤栄作や福田赳夫と親交を厚くし、時にブレーンとし、時に特命大使として支えたことから、小渕恵三から文部大臣の打診を受ける。しかし、目前に迫る妻の死の前に断らざるを得なかった。これも運命だったのだろうか?妻が元気であればとか、愛人が元気であればとか、三島由紀夫が死ななかったらとか、いろいろの「ればたら」はあるだろうが、享年66歳、自死、というのが江藤の選んだ最終地点だったのである。

江藤淳ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/江藤淳
参考サイト:
週間読書人ウェブ 平山周吉×先崎彰容対談 歿後二〇年江藤淳
『江藤淳は甦える』(新潮社)刊行 「没後20年 江藤淳展」(神奈川近代文学館)開催
 



2020年5月1日金曜日

第162回(令和元年下半期)芥川賞受賞作 古川真人「背高泡立草」

 吉川家兄弟三人とその娘二人が、兄弟が育った島に本土から車で出掛け、実家の納屋の前に繁っている草を刈る、という特別なエピソードもない物語である。それでも何故か面白く読めた。
 ただ、方言を含んだ会話が五人の間を飛び交うのであるが、時に受け答えが食い違っていたり、また、その話の間に、満洲に渡ろうとする夫婦、捕鯨をする青年、戦後に日本から密出国しようとして島にたどり着く朝鮮人と思しき一団、親に言われてカヌーで海に出て島にたどり着く中学生の四つの物語が挟まっているが、兄弟たちとの繋がりが分からないと言う点でやや読みづらい。

 古川氏は4回目の候補で受賞したらしいが、選考委員たちは、連作風な小説であるという事を認識しているらしい。
 だから、吉田修一氏は「市井のファミリーヒストリーと見せかけて、その土地自体を物語る・・・」、山田詠美氏は「同じ場所に確実に存在する異なった時の流れを交錯させるのは、この作者の真骨頂だろう。・・・」、小川洋子氏は「場所はとある島の一点に留まりながら、大胆に時間をかき回すことで、海から逃れられない人生を背負わされた人々が立ち現れて来る。・・・」と述べる。
 たしかに、言われてみればその様に読める。しかし、だから何なのか、と私は思う。個人的な見解だが、小説には書かれる必然性があるべきであり、できるならば書く者にとっての必然性だけではなく、読む者にとっても必然性が感じられるべきではないかと思う。

 受賞後のインタビューでルーツや血縁のことを訊かれて古川氏は、「家族や親族って・・・目的や意味がよくわからない集まりが多いじゃないですか。でも、一見無意味に思えるその行為を続けることが、結果的に家族や親族を結びつけているんです。そういう類の集まりが一切無くなったら、それはもう、ただの書類上の関係にしか過ぎない。・・・」と言う。
 両親が亡くなり、だいぶ以前から親戚との集まりなどはなくなっている私には、古川氏の言う意味は理解しにくい。この国には古川氏の言う様な関係が地方に行けばまだ多く残っているのだろうが、また一方、無くなりつつあると言うことも強く感じる。
 
 宮本輝氏は、今回の選考で委員を退任するに当たって、以下の様に述べている。
 72歳、われわれと同世代の作家の熱い言葉が心に響く。

2020年4月26日日曜日

中野翠 著「あのころ、早稲田で」


 下記の朝日新聞の書評(2020年4月11日掲載)を見て興味を持ち、すぐに図書館で借りて読んでみた。
 私は、1960年代後半の大学闘争(俗に言う学園紛争)を経験し、その後の日本社会の移り変わりを見てきた人間として、経験者が闘争をどのように総括し、またその後、どう生きてきたかに興味を持ち、東大全共闘代表であった山本義隆の「私の1960年代」など闘争経験者の著作を10数冊(1960年代安保闘争経験者の著作を含めると20冊以上?)読んできた。
 私の疑問は、フランスやアメリカ、ドイツなどに比べて、日本の闘争経験者が、その後、なぜ(広い意味で)政治に余り関与してこなかった(社会に影響を及ぼしてこなかった)のかということである。
 その答えが、彼らの著作を読むことで得られるのではないかと思っていた。しかし、それはかなえられていない。
 彼らは、当時の起こった事を記してはいるものの、総括はしていない。つまり、今(その後)も彼らのとった行動(持った思想・考え方)は正しかった、と思っているらしい。では、なぜ、その後、日本社会(政治)は変わらなかったのか、なぜ、彼らは改革(革命?)を継続しなかったのか、なぜ、旧来の体勢に埋没してしまったのか、疑問符がついたままである。
 自分のことになるが、当時、彼らの様に暴れ回らず、その後、行動は伴わなかったものの考え方(思想?)は変わらなかったから、反省しなくていいとは思っていない。 社会改革を漸進的に進めるために、議会制民主主義だけを信じてきたのが良いとも思っていない。それしかできなかった、というのが本音である。
 大きな力が自分に掛かった時に、本当に耐えられるのかは自信ないが、最後の一線だけは譲らない気持ちではある。
(閑話休題)
 中野翠という名前は知っていたが、実作は読んだことがなかった。私より若いエッセイストと認識していたのだが、1946年生まれで、私より二つ上のコラムニストであった。もちろん、どんな経歴(闘争経験者)かも知らなかった。

 早稲田(大学)は、日大闘争、東大闘争より少し前の1965年末に、学費値上げ及び学館管理反対闘争を展開し、全国学園闘争の先駆けを担った。この著作は、その時点から始まり、そして、1968年で終わっているので、全国学園闘争当時の雰囲気は伝えられていない。
 当時、彼女の入学した政経学部・経済学科の同期の女子は6名と少なく、そういった点から、彼女は早稲田の全共闘議長の大口さんや、学部の革マル派に属する闘争委員長などから声を掛けられたらしい。文学好きが、なぜか経済に入ってしまい、おまけに社研に入ったというのだから注目されたのだろう。
 しかし、この本を読むと、活動(思想)はファッション的で上滑りだった様である。卒業頃には、学校に行くのは一割で書店、喫茶店に行くのが九割だったらしい。つまり、私が期待した事柄は得られなかったわけではあるが、当時の早稲田の学内の雰囲気も含め、学生の生活の一端は知ることができた。私たちベビーブーム世代が経験するより少し前の、東京という大都会の有名私立大学の学生は、このように自由であったのか、と感心した次第である
 教養にはならないが、面白おかしく書かれており、読んで楽しいので、一読をお勧めする。
 以下、朝日新聞より
<堀部篤史が薦める文庫この新刊!> 
 先日、話題のドキュメンタリー「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観(み)た。三島の鷹揚(おうよう)な態度と、学生たちに合わせた丁寧な語り口に比べ、駒場キャンパスに集まった学生たちは決して一枚岩には見えず、その主張も抽象的だった。一体彼らは何と闘争していたのか。(1)(注:中野翠「あのころ、早稲田で」)は彼らとほぼ同時代を早稲田大学で過ごした著者が語る「バリケードの内側」の思い出。家に帰れば日常があり、流行や風俗とも無縁ではない等身大の左翼学生たちの姿。当時読んだという60年安保の闘士、奥浩平の手記を「今、読み返してみても圧倒されるよ。その苦悩の内容よりも、苦悩の熱量に。」と評するように、主張よりもその熱量こそが運動の本質だったのではないか。当事者による回想でなく、すぐ側からの客観的視点だからこそ「あのころ」を知る上で貴重。(以下、略)