2019年1月20日日曜日

2018年の読書(1)

 最近は図書館の本を借りて読むことが多くなった。年金生活になったということもあるのだが、買って読めば、妻が(私の)物が増えることを好んでいないので、いずれ処分しなければならないからだ。もっとも私自身も終活をしなければならないので(しているので)、好ましいことではないのだが。
 一方、仕事を辞めれば悠々自適と思っていたら、家事を一部担当させられ、むしろ働いている時より読書の時間が著しく減ってしまった。
 そういったこととは関係ないのだが、自分の頭の整理のためもあり、昨年図書館から借りた本と購入した本がどのくらいあったのか、何であったのか書いてみたい。もちろん、そんな事を書いてみても、読む者にとっては何の役にも立たないだろうし、読んでも面白くないだろう。だから、整理するとともにお勧めの本について、若干コメントしたい。
 昨年、図書館から借りた本と雑誌は合わせて64冊。購入した本は書店で2冊、古書店で1冊、講演会と美術館で各1冊、AMAZONで4冊(うち1冊はKindle版)であり、ヤフオク!で落札した本が5冊、定期購入雑誌(NHK短歌)が12冊で、つごう90冊である。
 内訳は、絵はがき関連1冊、学生運動関連3冊、技術史関連7冊、芸術関連3冊、広告関連1冊、自分史関連21冊、小説5冊、食べ物関連1冊、政治・社会関連1冊、短歌関連17冊、伝記1冊、篆刻関連10冊、対談1冊、文学(文壇)・出版史1冊、文芸雑誌12冊、歴史関連4冊、PCアプリ関連1冊である(分類は、自分の思いで勝手につけた)。
 90冊は多いと思われるだろうが、全てを読んだわけではない。図書館で借りた本・雑誌は、どちらかといえば、必要な部分をコピーしたり、流し読みしたり、つまみ読みしたものが多い。購入した本などでも、読んでいない本や読みかけのままの本、眺めただけの本もある。NHK短歌は、毎月送られてくるので読まなければいけないのだが、10月号が読みかけで、11月号、12月号は積んだままである。
 自分のメモのような事は、ここだけにして、読んだ本についてコメントしたい。
 まず、文芸雑誌だが、このブログを良く読む方はお分かりだろうが、多和田葉子や金原ひとみ、村上春樹など好きな作家の最新作がいちはやく読めるので良い。
 ただ、その作家の話だが、多和田は世界的に有名になってきているようだが、多作になり質がやや落ちてきているように感じる。春樹に至っては感覚的に古くなってきているように感じる。だから、今後は雑誌掲載・連載を読む事は少なくするつもりである。この二人の作品については旧作をお勧めする。
 連載物では、書道家の石川九楊氏が文学界に連載している「河東碧梧桐ー表現の永続革命」が面白い。俳句と書に興味のある方にはお勧めである。今年に入っても連載継続中である。
 長くなったので、ここで一度切りたい。(続く)
 

2018年12月12日水曜日

谷崎由依著「鏡の中のアジア」


 この作家の作品を初めて読んだのはもう2年前になる。”文藝”に掲載された「囚われの島 またはアステリオスの物語」だ。とても文章が上手く、またストーリーも良くできていて感心した。今年の7月に出版された「鏡の中のアジア」という本を、書店で見つけ、その題名にも興味が惹かれたこともあり、早速、市の図書館から借り出して読んだ。
 あいも変わらず、文章は上手い。流れるようで詩的でもある。5作の掌編、短編、中篇が収められているが、いずれもストーリーらしきものは明確でなく、ファンタジックな物語である。会話らしきものは少なく、ページ数、文字数より多く感じ、読むには力がいる。作品にはそれぞれアジアの地名(国名)が付されているが、ストーリーからは、それ程、その都市(国)を認識できない。特に「天蓋歩行」。ストーリーよりも(詩的な)文章を読むのが好きな人には、一読に値する作品だと思う。推奨する。

2018年11月1日木曜日

紗倉まな著「春、死なん」(群像2018年10月号掲載)

 
 七十歳の性を描いているという広告を見て、即座に図書館に予約した。私が書いてみたいテーマだったからだ。

 作者である紗倉まなは知らなかったので、雑誌の最後に載っている執筆者一覧を見ると、<AV女優、作家。93年生。『最低。』『凹凸』>とある。えっ、AV女優。二十四、五歳。若い!なんでそんな人が高齢者の性について書くの?、と思った。AV女優なら書くことは過激ではないか?話題作りで、ストーリーも文章も適当ではないか?など、読む前から眉に唾をつけた。
 念のためにウィキペディアを見ると、国立の木更津工業高専の環境都市工学科卒で、処女作『最低。』が映画化されるらしいし、AV女優としても有名らしい。

 前振りはともかく、作品であるが、ストーリーも過激ではなく、文章もしっかりしていて、良い意味でも悪い意味でもがっかりした。
 主人公は、妻を亡くした七十歳。アダルト雑誌やAVを見て、性の衝動を自分で処理している。ある時、タバコを吸うために病院のそばの喫茶店に入ると、店の女主人からトミーじゃない、と呼びかけられる。彼女は、昔の大学の短歌サークルで一年後輩だった文江(フーミン)で、夫に先立たれ、子供もいない一人暮らし、という。トミーは同じサークルの喜美代と結婚したのだが、結婚直前に文江と一度だけベッドを共にした。文江にしてみれば、自分が恋人を奪われたので、同じようにしてやろうと思って、寝たらしい。そんな二人だけど、自由の身となり、ルンルン気分でラブホテルに入って事を為す。しかし、そのあとでトミーの前に喜代美が現れたり、トミーが自宅に帰ると部屋の中が黒い貝で一杯になっていたりする。

 七十歳の男にも六十九歳の女にも性の衝動は現代のテーマになりうる。加えて、母と一人息子の関係や息子夫婦の感情のもつれなど現代のどこにでもありそうなテーマも描いている。

 作者には、それなりに力量はあるとも思えるが、作品の中に読者を引きずり込むような意外性は感じられなかった。凡作である。次回作品に期待したい。

2018年10月15日月曜日

第159回(平成30年度上半期)芥川賞受賞作 高橋弘希「送り火」


 今年上半期(第159回)の芥川賞は、高橋弘希氏の「送り火」に決まった。氏は「指の骨」で、2014年の新潮新人賞を受賞しており、その作の評判が良かったことから、最終候補作四作に絞られた時、受賞の可能性が高いと思われた。だから、受賞が決まった時、驚きはなかった。
 受賞できなかった三作は読んではいないが、確かに「送り火」の文章力は素晴らしい。しかし、私はいくつかの点でやや違和感を覚えた。例えば、不必要に熟語が使われていること、時代背景は現代だと思われるが登場人物の知識がやけに昔のことに詳しいこと、描かれている場所は山村と思われるが、なぜか無人の銭湯があることなどだ。そうは言っても、その文章力に惹きつけられて最終エピソードまでスムーズに読むことができた。東京から引っ越してきた主人公は、中学三年生。クラスの人数は少なく、男子全員いつも連れ立って遊ばなくてはならない。そこで中心となる晃の行動に理不尽さを感じるが、拒否や抵抗するほどの極端なことはない。
 だが、最終エピソードを迎えると、彼ら以外の人物ー卒業生ーが現れて、全く信じられないような暴力沙汰が始まる。ここから先は、読んでもらった方が良い。その暴力を、作者が描く必然性はあったのだろうか?そして、その暴力は何を意味するのだろうか?
 私は、小説に描かれるエピソードには、描かれるべき必然性がなければならないと思っている。この最終エピソードに、必然性は感じられなかった。作者の内在的な闇が現れ、その衝動に突き動かされて筆が動いたとしか思えない。
 選者の一人である高樹のぶ子は、選評を読むと私と同じように感じたらしい(添付画像参照)。また、川上弘美氏もこう書いている、「読後わたしは、どこにも行けないような気がしてしまったのです。」。また、宮本輝氏は、「最後の場面は残酷で、主人公の少年はこのまま殺されてしまうのかと、その不当さに首をかしげざるを得ない。」、と書いている。

 そうは言っても、多数決とは言え、多くの選者に推薦され芥川賞を受賞した作品です。ぜひ、一読されることをお勧めする。

2018年9月15日土曜日

大江健三郎 柄谷行人 全対話(2018年、講談社発行)


 この本を、書店で見つけた時にその組み合わせにビックリした。と同時に、読みたいと思った。二人の良き読者ではない私だが、昔から、その著作と動向に注目していた二人が対話する。
 リベラルで通っている大江と若き頃旧ブントであった柄谷の組み合わせは、1970年台前半のイメージからすると奇妙ではあるが、大江はより党派的(狭め)に、柄谷はより非党派的(広め)になったことを考えれば、対話しても不思議な感じはない。もっとも、ここに載っている三つの対話は1994年、95年、96年になされたものである。
 大江は、その頃であったか断筆宣言をして、再開はしたが、今はもう余り物を書かなくなっているが、「全小説」の発行も始まり、そういった点からも注目されている(病気のようでもあり、うがった見方をすれば、終焉が近いということか)。
 柄谷は、未だ精力的に活動をしており、年々、一般人に注目されるようになってきているように感じられる。

 本題に入ろう。内容は、次の四部からなる。
「大江健三郎氏と私」(柄谷行人書き下ろし)
「中野重治のエチカ」(1994年) 「戦後の文学の認識と方法」(1996年)
「世界と日本と日本人」(1995年)

 「中野・・・」は、転向論ではない。中野の「ちょっとの違いへのこだわり」についてである。二人とも、中野は物事を細部から組み立てていく、という。20ページにある、大江の「細部の観察から少しずつ論理を展開していく、(中略)ついには、きわめて大きいものを組み立てていく。」という、中野の論理の組み方への言及がこの対談の骨子である。
 「戦後の文学・・・」は、”普遍”という概念を軸として、哲学と文学を論じている。戦後文学は、普遍的な要素を持っていたという。戦後文学の作家として、野間宏、大岡昇平、武田泰淳、堀田善衛などの名前が挙げられる。しかし、日本の文学は、世界では美的対象でしか評価されていないという。三島由紀夫がその代表で、安部公房は、日本から遠ざかった位置で評価されているという。大江は、「本当に文学が必要で意味ある時代に自分が引っかかっていた、それを信じて作家活動をしていたのは、『万延元年のフットボール』のころで終わりじゃなかっただろうかという気持ちがあります。」と、述べる。柄谷は、「それは、大江個人にとってだけではなく、ある意味、万延以来の日本の近代のある種の総決算だったんじゃないかと思う」、と述べている。哲学論は、スピノザやカントを中心に展開される。
 「世界と日本・・・」は、大江の『あいまいな日本の私』から、ambivalent(両価)とambiguous(両義)の違いを中心に展開する。柄谷は、「我々の感情は、ほとんど常に両義的だ。(中略)常に二つの対立的な価値になるものが共存している状態だと思う。ambivalentな態度とは、それをクリアにしようとする、一つの方に決めてしまうことだ」という。大江も柄谷も、ambiguous(両義)な態度を評価する。
 ”普遍”と”日本の文学”については、上記二つの対談に共通している話題のように思える。

 教養レベルの高い人同士の話で、現代の外国の哲学者や批評家の名前が何の説明もなく出てくる(脚注はある)。私は彼らを知らず、話についていけない部分も多い。
 しかし、哲学も文学も生活に根ざしていて、日常の生き方を表現しているのではないか、と思う時、全てを理解しなくても自分を少しだけでも高いところに連れていってくれるのではないかと思う。
 そういう考えで、いつも背伸びして生きてきた。しかし、理解できていないのに、本当に役に立ったのかと思うこの頃ではある。でもこれが、私の生き方であり、これからも信じて生きていくしかないし、信じて生きていくだろう、と思う。

2018年8月8日水曜日

西部邁 著「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」(1986年発行)

 
 本屋に行くと読みたくなる本を見つけてしまう(笑)ので、できるだけ本屋には行かないようにしていたのだが、最近はまた、スポーツジムの帰りに行くようになってしまった。ひと月以上前の事になるだろうか、文庫の棚で西部邁の「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」(文春学藝ライブラリー)という本を見つけてしまった(笑)。
 目次を見ると、第一章から第六章までは、6名の著名人(篠田邦雄氏は知らなかったが)の名前が書かれている。面白そうだと思って、すぐに図書館に貸出予約を入れた。西部氏が、ちょうど自殺で世間を騒がせていた頃だ。西部氏については、60年安保の指導者で、その後、経済学者となった保守の論客という事は知ってはいたが、これまで一つの著作も読んではいなかった。
 本屋で見たのは今年6月に発行された文庫だが、私が図書館で借りたのは、昭和61年(1986年)10月発行のその元になる単行本。内容に差異はないと思う(これ以外に、洋泉社が2007年6月に発行した新書〈MC新書 17〉があるらしい)。

 結論から言うと、西部氏が真面目に書いたとは思えない内容で、皆様にお勧めできるような本ではない。
 期待していたのは、何らかの思想的な自己批判があるとのではないか、と言うことなのだが、思想的な内容は、わずかに長崎浩の章に見られるくらいだろうか?それも、長崎浩が述べていることが、一般人の我々では理解しにくい内容なので、西部氏の考えもそれと裏腹で同じだ言われても、それも理解できない。
 そも、西部氏は、序章において、「ブントにかんする政治的評価などは私の本当の関心事ではないのだ」、「自分のかかわったかぎりでのブントについて語ろうとしているのであり、またそれしか語れないのである」と言い切っている。その通りに、唐牛健太郎、篠田邦雄、東原吉伸、島成郎、森田実の章では、彼我の交流を主にした面白おかしい話しが記されているだけである。
 散見するのは、とても運動の先頭に立っていた人とは思えない感慨である。例えば、「マルクス主義が何であるかを知らずに、またそれを知るための暇もなしに、共産主義者同盟のアジテーターになっていた。獄舎に入ってから、さて自分の主義の実態はと、あれこれ文献を読みすすんでみると、それらは私の肌に合わぬ衣装であり、腹に収まらぬ食物だと思わないわけには行かなかった。」。これを読んで、無責任極まりないと思わないではいられない。

 直截的な表現ではなかったかも知れないが、ブントの寄って立つところは、共産党と闘う事であったらしい。少なくとも西部氏はそう思っていたし、現実に駒場のブントは、そう行動したらしい。

2018年7月31日火曜日

多和田葉子 著「胡蝶、カルフォルニアに舞う」

 どういう事情かわからないが、最近、多和田葉子の作品が頻繁に文芸雑誌に掲載される。今回の作品は、読むつもりはなかったのだが、偶々、春樹の最新短編が掲載されている雑誌(文學界7月号)に載っていたので、ついでに読んだ。
 日本の大学に入れないので、親がアメリカに留学させたが、授業にも出ず、遊んでいた”I”が、どうせ卒業もできないし、アメリカでも就職できないのだろうからと、一念発起(?)して、日本で就職すれば、親が喜ぶだろうと10年ぶりに帰国。メールだけの友達で、高校時代の同級生の優子のところに寄宿して、面接に行った会社での試験は、白い内装の箱の中に入って、顧客からの電話を受けるカスタマーサービスの仕事。英語ができるだけでいいという仕事は、うまくこなせるのだが、倒れるまで働かせるのではないだろうと思うと、それは、アメリカに向かう機内での夢であった。
 題名が示すように、これは「胡蝶の夢」なのか?10年ぶりの日本では、電車の乗車券を買う時に、「西瓜」を使うなどという、つまらない言葉遊びは多和田らしいが、なんでこんな作品を書いたのかわからない。彼女の作品には、いつも何らか意味が隠されているのだが、この場合は何だろう?

 それにしても、彼女の作品としては、駄作の部類だろう。何らかの事情があって書いたのだろうが、余り自分の作品を安売りしないほうが良いだろう。ノーベル賞候補作家なのだから。もっとも、本人はそんな風に思っていないかも知れないし、確率的にもかなり低いのだから、どうでも良いのかも知れないが。