2014年5月27日火曜日

大西巨人「縮図・インコ道理教」


 大西巨人の本をいくつか読んだ人ならば理解できるだろうが、「神聖喜劇」を除いて彼の作品は「小説」と言えるのだろうか? かといって評論ではない。彼の主義主張、哲学がそのまま隠されずに述べられている物語だ。しかも年を重ねる毎にそのような「小説」になって行ったような気がする。勿論、人物や組織の名前は変えられてはいる。変えられてはいるが、ある程度知見のあるものがしつこく調べたならば分かってしまうだろう。分からなくても面白い作品もないではないが、その多くは分からないとつまらない。
 加えて、言葉や事象を微に入り細に入り説明するため、話しの動きが遅く、またあっちにいったりこっちに行ったりする。だから読みにくい。でも根気よく読み続けたならば、決して面白くないわけではない。

 文芸雑誌「すばる」の5月号には、作家の阿部和重と文芸評論家の高橋敏夫が追悼文を載せているが、阿倍は「「縮図・インコ道理教」は文学における真のリアリズムを最良の形で再現した傑作となった。」、と書いている。
 私が今まで読んだのは、「神聖喜劇」、「天路の奈落」、「三位一体の神話」、「五里霧」、「迷宮」、「深淵」、「地獄篇三部作」の7作である。「縮図・インコ道理教」は「オウム真理教」の話しと想像させられて読んでなかった。
 しかし、その想像は裏切られた。話しにはいくつかのトピックがある、それらは、天皇制、樋口一葉、文壇の垣、近親憎悪、殺人などである。とりわけ「近親憎悪」に関する論議が多い。具体的には作家・大圃宋席宛ての当代文学会員Bの書信の中に書いてある「インコ道理教という宗教団体にたいする国家権力の出方を、私は、「近親憎悪」という言葉で理会してきました。」という文章の「近親憎悪」についての論議だ。しかし、ここに論議は集中するものの、真の意味は提示されず、最終章の題意でこの作品の主題が明かされる。即ち、「縮図」とは「皇国の縮図」の意であり、「皇国」と「インコ道理教」はいずれも宗教団体であり、戦争での殺人とテロによる殺人とにどれほどの差があるのか、という問いである。
 大西のこの本の狙いは、今も天皇制が維持されている事への苛立ちを示す事であり、憲法改悪への対応をどうするかを示す事である、と私は思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿