2017年8月21日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第九回)(「群像」2017年8月号掲載)

 今更言うのもおかしいが、多和田の作品を読むと、いつも言語について考えさせられる(と、いってもそんなに真剣に考えたことはないが)。その理由が、ほとんどの作品の主題が言語についてであり、仮に言葉が主題でなくても、いかにコミュニケーションをとるかについてである。それは、人間対人間でない場合もある。

 この章では、Hirukoがアルルまで行って、同じ言語を発すると思われるSusanooに会って、話しをする場面で費やされる。話しをする、と言っても、何故かSusanooは言葉を発しない。声が出ないのか、言葉を見つけられないのか、しゃべるのが嫌なのか、分からない。ただ、ナヌークの発した、「ふるさと、PRセンター、ロボット、発電、造船」という単語の並びに反応する。

 言語以外でもコミュニケーションはとれるが、人間にとって、言語はもっとも手軽なツールだ。中でも母語は。
 多和田のように多言語を操られる人間は、そう多くはない。もちろん、西欧人では意外に多いのだが。理由は簡単だ。それぞれの言語のルーツが同じだったりして、単語や文法が似ているからだ。日本語は特殊である。言葉の並びが英語などの西欧の言語と異なる。韓国語(朝鮮語)やモンゴル語と同じではるが。だから、HirukoはSusanooと話したいのだ、もちろん、出身の島の動向が知りたいからだが。
 Susanooが言葉を発しないのは、何故か。そして、この章の最後に現れた、北欧風の四十半ば、と思われる女性は、その理由を知っているのだろうか。

 次号がいよいよ最終章らしい。

2017年7月27日木曜日

桐野夏生 著「デンジャラス」(2017年6月初版)

 女性に非常に(異常に)興味を持っている、高齢の大作家のどろどろした性の実態が暴かれているのかと思って期待していたのだが、違っていた。これは、女性作家だからこそ書ける、谷崎王国(谷崎を取り巻く女たち)の女の闘いの物語である。物語を進行するのは、谷崎の最後の妻である松子の妹、重子。
 第一章、第二章は、淡々と語られるが、第三章「狂ひけん人の心」に到って、重子も冷静さを欠いていく。「瘋癲老人日記」の基となった、松子の連れ子である田邊清一の嫁、千萬子と谷崎の速達による手紙の交換が始まり、谷崎が千萬子の言いなりに物を買い与え、最後には家まで買い与えてしまうからだ。
 最後に勝利するのは誰か。それは、読んでみて、それぞれが感じるものだから、ここでは明らかにしない。

 私は、「細雪」や「瘋癲老人日記」も、巻末に記された主要参考文献の一つも、読んでいない。しかし、これは、谷崎と取り巻く女性たちの間の真実のできごとや姿を暴いたものではなく、かなりフィクションを交えていると私は思う。余りにも千萬子を悪く描いているにもかかわらず、著者が、巻末の謝辞に、「この本を書くにあたりまして、渡辺千萬子さん、高萩たをりさんには、大変お世話になりました。(後略)」と書いているからだ。
 期待はずれではあったが、はらはらどきどきしながら、一気に読むことができた。エンタテイメントとして読めば面白い作品である。女たちの心理が良く分かる、女性の方に、特にお勧めである。

2017年7月17日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第八回)(「群像」2017年7月号掲載)

<第八回のあらすじ>
 今月は、アルルで鮨職人をしているSusanooの、生い立ちから鮨職人になるまでの経緯が語られている。それだけだ。これからの筋につながるような、特別なトピックスはない。しかし、SusanooがHirukoと同じ国から来たようである事から、新しい展開の端緒になる章だろう。
 Sussanooは、福井から造船技術を学ぶためにドイツ北部のキールにやってくるが、サッカー競技場で開かれた闘牛の会場で見かけた、真っ赤なドレスを着た姿勢のいい女性に惚れてしまう。彼女を追って、アルルまで来る。苦労して探し当てた家で、大男に投げられて大怪我をしてしまう。キールに戻る気にもなれず、アルルのレストランでアルバイトをしている時に、鮨職人として雇われる。このようにして、新たな登場人物、Susanooが紹介される。

延江 浩 著「愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家」


 新聞の紹介記事(書評)だったか、宣伝を見て、面白そうだったので図書館で借りて読んだ。
 AMAZONの内容紹介は、以下の通りである。
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戦前最強の思想的家柄・頭山家と戦後最強エンタテイメントの家柄・松任谷家という「ネオ名家」を軸に織りなす決定版戦後史。
「昭和」の主音(キーノート)とは何だったのか。
ユーミンも知らなかった、両家の歴史が明らかになる。
昭和という時代、面白い出来事、場所、人の近くには決まって「松任谷家」の人々がいた。そして、昭和をつらぬく精神性の基盤には決まって「頭山家」の信念があった。
「松任谷家」の「発明」精神と、「頭山家」の「尊皇」精神ーー。
「昭和」を、この上なく面白くスリリングな時代にした両家のハイブリッドの軌跡を描き出す。
金を無心し、そのためだけに生きる輩が大半の中、その精神の気高さが光る、松任谷家と頭山家。エスプリで時代を切り拓き、大きな足跡を残した彼らは、群れることをせず、あくまでもインディペンデントでアマチュアだった。
優雅とは俗から離れてゆとりがあること。
頭山家と松任谷家は、恍惚と絶望が絶えず交差する現代史の中でさまざまな試練を与えられながらも、確かな目で文化を産み、選び、育ててきた。真に日本人らしくある、といことはどういうことなのか? 「優雅なアマチュア」でい続けることが、これからの日本人にとっての生きる指針になるだろう。
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 松任谷正隆の伯父・健太郎の妻、尋子が頭山満の孫になる。
 千駄ヶ谷の松任谷ビルの地下には、エキゾチカ(易俗化)という尋子夫妻が経営する会員制のクラブがあった。また、川添梶子夫妻が経営する飯倉片町にあったレストラン・キャンティ。そこには、多くの文化人や芸能人、政治家などが現れた。
 本書は、松任谷正隆につながる音楽関係者、例えば、「はっぴえんど」の面々、加藤和彦、「キャラメル・ママ」の面々などや、正隆のいとこになる画家でタレントの松任谷國子につながる人々、また頭山満を訪ねてきた人々の事が、成書に書かれている事や主に國子の姪にあたる玉子から聞いた事などから、書き綴られている。
 内容は、上記の紹介記事に書かれているほど深みのあるものではなく、大変がっかりした。所詮、日々、生きるのにあくせくしてきた、私のような庶民には関係のない、ゆとりのある人たちの世界が描かれているだけだ。
 しかし、暇つぶしに読む、軽い作品と考えれば良く、スムーズにかつ面白くは読めた。
 ただ、頭山満をフィクサーとして手放しで称賛したり、「フォークル」の「イムジン河」発売中止の理由を朝鮮半島分断を歌った内容だから、と間違った事が書かれていたり、と問題点もある。

 著者のノンフィクション作品に関する姿勢にも疑問が残る。

2017年7月5日水曜日

武田 徹 著「日本ノンフィクション史  ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」(中公新書)


 著者は、”はじめに” に書いている。「小説中心の文学史の本ってそれこそ掃いて捨てるほどありますが、そう言えば、ノンフィクション史の本ってありませんよねー。」。かつて、「ノンフィクション作家」の肩書きで呼ばれていたこともある著者が、この本を書く事になったのは、上記の事が動機らしい。

 この本は、表紙の裏に書かれているように、記録文学、ルポルタージュから初めて、ノン・フィクション、ニュージャーナリズム、私ノンフィクション、そしてケータイ小説、リテラリー・ジャーナリズム、アカデミック・ジャーナリズムに至るまで、その定義と実例を挙げて論じている。しかし、単なる解説にとどまらず、その時々の社会状況を踏まえて、(ノンフィクション)作品がどう変わっていったかをたどっているのが良い。一読に値する新書である。


2017年6月25日日曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第七回)(「群像」2017年6月号掲載)

<第七回あらすじ>
 クヌートは母親にノルウェーのオスロ行きを引き止められる。病気だ、と言う。外に出られない、と言う。知らない人と話す気になれない、と言う。夜眠れない、と言う。よくよく聞いてみると、一種の慈善事業として生活費を出してやっているエスキモーの医学生がいなくなってしまった、と言う。<<ここでは示されないが、この留学生というのはテンゾのことではないか?>>
 結局、母親はオスローに、昔の友達に会いに行くことになる。しかし、クヌートはHirukoを紹介するのが嫌でオスローに行くのを取りやめる。一方、オスローではアルルに行くと、という話しが進んでいる。


 モネと浮世絵の関係、富士山とノルウェーのコルサース山との関係など、今回も異文化の衝突が描かれる。アルルに行けば、また新しい広がりが出る事が期待される。

2017年6月3日土曜日

中原清一郎著「消えたダークマン」(文藝2017年夏号掲載)

 中原清一郎とは学生時代に「北帰行」で文藝賞を受賞した外岡秀俊(そとおかひでとし)のペンネームである。新人ではあるが、文章とストーリーのうまさに感心し、完成度の高さにびっくりしたことを覚えている。その後、朝日新聞に入社し、記者として編集局長まで上り詰めるとともに、良質な記事やドキュメンタリー(風エッセイ?)を出してきた。だから、3年前に、「脳間海馬移植」によって末期ガンになった男が、女と入れ替わるというテーマの「カノン」(文藝2014年春号掲載)を著した時、期待を持って読んだ。新聞や文芸雑誌での評判は悪くなかった。しかし、私は正直、がっかりした。テーマのみが先行し、その出来は、「北帰行」やドキュメンタリーのレベルからはほど遠かったからだ。
 今回のテーマは、コソボ紛争やイラクのクウェート侵攻という記者時代の経験や知識を生かしたものであり、期待が持てた。「ダークマン」は、アナログカメラ時代のフィルムの現像処理のプロ、「暗室マン」の和製英語だ。今は、カメラはデジタル化され、ダークマンが消えたように、「戦争から暗部が拭い去られ、すべての位置に焦点が合ったパンフォーカスの絵葉書写真のように、妙に鮮明で人工的な風景が、戦場には広がっている」。
 戦場を描くことで生き生きとした筆致になっている。だから、すらすらと澱みなく、読み進む。
 しかし、これは小説なのだろうか?小説は論文とは違って、そこに書かれていることへの正しい理解を求めてはいない。そこには、おやっ、と思うようなことや曖昧な事が書かれていなければならない。なぜなら、一元的な理解を求めずに、読者それぞれの読み方を期待しているからだ。
 この小説は、どうだろうか?著者の知性を前面に打ち出した小説になっていると感じるのは私だけだろうか?。私が若い時に親しんだ多くの小説に近いと思う。今は、失われ去ろうとしている形だ。村上春樹が多くの人に読まれるのは、彼独特のいかようにも理解出来るワールドがあるからであり、いまだもって漱石が読まれるのも同じような理由だろう。外岡という類まれなる小説家は消え去ってしまったのだろうか?私はそうは思わない。次の作品に期待したい。