2014年11月21日金曜日

第51回文藝賞に思う


 先月の朝日新聞の片山杜秀の文芸時評は「高学歴者の鬱屈 不条理な今を生き抜く」との見出しの下に、今年(第52回)の文藝賞2作、李龍徳作「死にたくなったら電話して」及び金子薫作「アルタッドに捧ぐ」を採り上げている。
 「死にたくなったら電話して」の中身は「セックスと説教の二語に尽きる」と言い切り、「現代の関西を舞台にした、見事なまでに古典的な破滅小説である」、と言う。「アルタッドに捧ぐ」は「李の逃避路線とは一線を画し、倫理的な気高さがある」、と言う。
 そして、「それにしても、高学歴者や高学歴を目指して挫折し煩悶(はんもん)する者の出てくる小説が、新人の作に目立つ。京大中退者、学者、大学院浪人生。書き手の世代的経験と関係がありそうだ。」、と言う。
 この時評を読み、大変興味を持った。勿論、そこに書かれている僅かのあらすじも読んでの話しだが。おまけに文藝賞の第1回長篇部門は私の最も好きな作家である高橋和巳の「悲の器」が受賞しており、第2回では中・短編部門を真継伸彦が「鮫」で、第4回は金鶴泳が「凍える口」で、第13回は外岡秀俊が「北帰行」と、初めの頃は、社会の矛盾を見つめ、しっかりと書き込んだ作品が受賞しており、昔は注目していた文学賞だったので(勿論、私はこれらの作品を受賞後すぐか数年以内に読んでいる)。
 今回の作品も図書館から雑誌を借り、読もうとした。しかし、両作品とも最初の数ページで読むのを中断してしまった。李の作品は会話がだらだらとしていて筋書きが冗長であり、また、金子の作品は主人公が自分だけの世界に入ってしまっていて、外の世界とかけ離れているように感じられたからだ。
 藤沢周、保坂和志、星野智幸、山田詠美の選評と星野と李、保坂と金子の受賞記念対談は読んだ。その中で受賞作についての話しで特に印象に残った事柄はなかった。
 しかし、対談で保坂の”すらんぷ”について、「…一作目の前にスランプがあった。二十代で、小説家になりたくて、どうすれば書けるかと思いながら、ずっと書きあぐねていたわけ。そこがスランプだった。」、という言葉と、”文学賞受賞”について、「よっぽどの例外を除くと、書き出してから普通は五年くらいはかかる。」、という言葉に興味を持った。5年も掛かるのであれば、自分が今書き始めたならば古希は過ぎてしまうと思った

2014年10月25日土曜日

服部茂幸著「アベノミクスの終焉」


 表紙の裏扉には、「異次元緩和の始まりから一年以上がたった今、いくつもの「つまずき」を抱えたアベノミクスの実態が明らかになっている。政治のレトリックに惑わされることなく、客観的なデータにもとづき、警鐘を鳴らす。」、とある。
 例えば、アベノミクスのレトリックに沿わないデータとは、以下の様なものがあげられる。
株価上昇と円安は、異次元緩和開始前に生じている
・円安にもかかわらず輸入の伸びは著しい
・2014年4月の労働者の所定外給与や特別に支払われた給与が急増し、現金給与総額は前年同月比で0.9%増加しているが、物価の上昇もあり、実質賃金は1%程度低下している
・2009年から2012年までの日本の平均消費者物価上昇率はマイナスであったが、一人あたりの経済成長率はドイツなどに次いでが高かった
・1992年から2007年の主要先進国の一人あたり経済成長率と政府支出のGDP比を見ると、政府支出の小さな国が経済成長率が高いとは限らない
・小泉構造改革が手本にしたニュージーランドは、過激な改革前にはオーストラリアと肩を並べて経済的な成長を遂げていたが、2000年には一人あたりの所得はオーストラリアの三分の二となってしまった

 現在、アベノミクスに異を唱える我々が共感するような論が次々と展開されるが、特に目新しいデータや論理は展開されておらず、「もっともだ!」、と再確認するに過ぎない。ただ、それでも良いと言う人やアベノミクスを信じている人には一読をお勧めする。

2014年10月8日水曜日

座談会「戦後をみつめて」(後編)(角川短歌2014年9月号再録)


 経験というものは大事である。経験するとしないとでは大きな違いがあるだろう。
 戦後生まれの私は戦争を全く知らない。おまけに1900年生まれの父親は太平洋戦争においては戦地に行ってないらしく、戦争の話しをしなかった。母も東京大空襲がひどかった、ということは話していたような気がするが、その他の事を聞いた記憶がない。小さいときに東京に行ったときには上野の地下道などで浮浪児を見たり、田舎の町とはいえ傷痍軍人が街で金銭を求めて座っている姿を見たりもしたが、戦争に対する切実な感覚を持ったことはない。朝鮮戦争の時には未だ幼児であったし、ベトナム戦争の時には米軍基地の近くに住んではいなかったので、その緊迫感は伝わってこなかった。勿論、座談会が行われた昭和53年(1978年)においても、そして現在においてもその感覚は変わっていない
 座談会に参加した鶴見俊輔と市井三郎は1922年生まれ、玉城徹と岡野弘彦は1924年生まれ、金子一秋は生年不明であるが同年代であろう。
 座談会が行われたのは戦後33年。20歳過ぎで終戦を迎えた彼らにとっては、それでも未だ戦争の記憶は如実であったに違いない。しかし、彼らの間にもその感覚に多少の温度差はある
 金子は「…実はここには不在で欠席している人がいるわけです。出席できない人がいるわけです。…」、と言って、戦死した人たちのことを頭の中に置きながら話している。
 市井は、「…戦勝国として彼らは、東南アジアの植民地にすべての独立を与えた。つまりヘーゲル的な歴史の狡智という論理では言えば、戦争の目的は達成されたんだよ。…」、と言って死んだ弟の英霊に答え、また、有機農法を進める三里塚の(セクト学生ではなく)農民たちだけを讃え、「…かつてあった田中正造を生んだような自治的な村、共同体というものは、いまは非常に少数だけれども、復活しているんです。…」、と言う。
 岡野は、平家物語や念仏踊りなどを例に出して、「…かなりの年月をかけて、死者の魂の浄化、さらには新しい生き方へのたしかな足場をさぐり出して、次の新しい生活を築いていった。民衆の息長い持続力のある情熱を信じます。…」、と言う。
 そして鶴見は例によって幅広い観点から色々な話しをする。戦後の不戦憲法を守りたいとおもっているのは、日本人ではなく在日朝鮮人ではないのかとか、第三の開国を内側から切り開くのは在日や沖縄の人だろうとか、暮らしを守るという思想が重大だという気がするとか、述べる。

 話しは変わるが、最近、以前ほど(戦前、戦中)戦後という言葉を使わなくなった気がする。良く使うのは昭和と平成だ。それもそうだろう、日本は70年近く戦争をしていないし、(殆ど)戦争に荷担していないからだ。昭和という言葉は、どちらかというと戦前、戦中は入っていない戦後のみ、特に昭和30年代以降を指している事が多いような気がする。
 70年近くも戦争をしないと、多くの国民は戦争を経験していない。そして、平和の有り難さが分からない人間が殆どになっている。だから、領空や領海を侵すならば、すぐにこちらも武力で対抗すればいいんじゃーないか、という気になる。
 安倍首相は何かにつけて、「戦後レジュームからの脱却」、と言う。これは色々な意味にとらえられているが、首相が意図するところは米国の占領下でできた法律や行政などの基本的枠組みの変更の様で、その中にいざとなれば日本も武力を誇示、発揮できる様にする事も含まれている。日本も戦前の様に武力の誇示・発揮をしたいという事だ。諸外国にすれば、それは現在も続いている戦勝5ヵ国体制の変更を意味するところとなり、日本は、また昔のように杭を出そうとしているな、と捉える。
 現在、世界中いたるところで「国民国家」を打破しようとする民族や宗教を柱とした国家建設への動きや、それに伴うテロや暴力、戦争が多発している。そういったことを考えれば「戦後レジューム」の綻びは見えてきているのではあるが、日本は決して70年近く不戦の歴史とその意義を忘れてはならない。そう私は思う。

2014年9月22日月曜日

第151回(平成26年度上半期)芥川賞受賞作 柴崎友香「春の庭」


 柴崎友香の名前は文芸雑誌の広告や目次で良く見かけていて、作家としてある程度の地位を得ていることは知っていたので、いつかその作品を読んで見たいと思っていた作家の一人ではあった。今回芥川賞を受賞したので期せずして彼女の作品を読むことになった。(柴崎は7年間で4回の候補になっている)
 やはり文章も内容もしっかりしていて読みやすい作品であった。ここ数回の受賞作のような奇を衒った作品ではない。

 30歳過ぎた主人公・太郎は、離婚し、最寄り駅から徒歩で15分くらいの所にあるアパート「ビューパレス サエキⅢ」に3年前に引っ越してきた。最近は、駅からこのアパートまでのあちこちで工事や空き地が目立つようになり、この地域は再開発が進んでいる。このアパートも取り壊しが決まり、来年の七月の契約終了までには出て欲しいと大家から言われている。アパートは2階建てで、各階に4部屋あるが、すでに4部屋の住人は引っ越してしまっている。各部屋には番号でなく、「辰」から「亥」と干支がふってある。太郎の部屋は「亥」であり、他には「辰」に2月(注:今は5月)に引っ越してきた30歳過ぎと覚しき女性、「巳」に太郎の母親より年上に見える女性が住んでいる。また、「申」には若い男女が住んでいるが、太郎は話したこともない。
 物語りは「辰」に住んでいる「西」という女性が興味を持った「洋館ふうの水色の二階建て」の家にまつわる話しが中心である。アパートは、田の字型に4軒がブロックとなっている内の1軒であり、時計回りにアパートの右側は敷地いっぱいまで建てられているコンクリートの壁に囲まれた金庫のような家、その右が水色の家、さらに大家の古い木造家屋の様になっている。
 「西」は「春の庭」と題された写真集に写っている「水色の洋館」を見たくて引っ越してきたらしい。最初は、窓から洋館の庭を覗いていたのだが、行動がエスカレートし、中庭からブロック塀を乗り越えて洋館の敷地に入ろうとする。それを制して太郎と「西」は親しくなる。「西」は、そのうちに洋館に引っ越してきた森尾さん一家と仲良しになり、洋館の内部が写真集の頃と余り変わっていない事を知る。しかし、唯一、風呂場を覗くことが出来ないために、太郎に協力を頼むのだが、二人が毛蟹、ほっけの干物、イクラの瓶詰めを持って訪れた森尾家の部屋でトラブルが起き、意外な展開となる。

 果たしてこの作品で作者は何を訴えようとしたのだろうか。変わらない風景への郷愁、他人との関わりの中で生まれる思いもよらぬ関係性、太郎が父の骨を砕いて散骨した話しや庭に埋められた死体が発見されたというドラマの話しなどが出てくるので、生きている者の死者への関わりの仕方など、考えられるものはいくつかある。しかし、それらは日常生活のどこにでも転がっているような事柄だ。
 私は、最近、作家が何故その内容を小説の主題としたかが分からなくなってきている。それだけ、作家の考える事が複雑になってきているのか、それとも自分の身の回りの気になることだけに矮小化されつつあるのか。
 その作家にとって、その内容を主題とする必然性があるのか、作家は考えているのだろうか。着想が面白いから書いた、というならばエンタテイメントとさして変わらない事になる。いわゆる作家の気持ちの入っていない「良くできたお話し」になってしまう。

 選評の中で以下の評が気になったので掲げておく。
高樹のぶ子
 「春の庭」の作者は、これまで自分の居る場所への違和感不安感を書いてきた。本作では住まいがテーマだが、かつてそこに住んでいた人たちが消えたように、すべては散逸し流動する運命であることを、静かに明るく描いていて、そこには心地良い風も吹いている。(後略)
宮本輝
 今回の候補作五篇は、(略)。それぞれ独自の手練さを発揮してはいるものの、小説が終わりに近づくにしたがって、主題そのものから逃げ腰になっていくという歯がゆさを感じた。小説がひとつの長い譬喩だとすれば、それはどこかで「真実」と同化しなければならないと私は考えている。真実へと到らせるための譬喩だということになる。書き手の主題が単なる思いつき程度だと、譬喩はどこまで行っても真実へと転換されない。だから逃げるしかなくなるのだ。

2014年9月5日金曜日

座談会「戦後をみつめて」(前編)(角川短歌2014年8月号再録)


 私は、今もって「戦後」という言葉が使われ続けていること、そしてその言葉がどのように使われ、どのように受け取られているかについて、以前から疑問を持ち続けてきた。
今回、「角川短歌」の8月号及び9月号(2014年)に、昭和53年7月号に掲載された「座談会 戦後をみつめて」が再録されることを知り、図書館から借りて読んだ。興味を持ったのは、出席者に鶴見俊輔が含まれていたこともある。出席者は他に哲学者・市井三郎、歌人・玉城徹、歌人・岡野弘彦、歌人・金子一秋(司会)の5氏。
 再録の趣旨として、以下の事が記されている。
『(前略)まるで、つい昨日行われたかのように当時から現代まで変わらずに続く問題が話し合われていることに加え、参加者全員が戦争経験者であることから語られる話は、戦後69年経った現代においては、貴重なものといえます。(後略)』

 話しは変わりますが、皆さんは「戦後」と聞いて、その戦争は何戦争と思われますか?また、いつからいつまでと思われますか?
 私は、娘が中学生か高校生の時(1994年~1999年頃)に会話していて「戦後」という言葉を使い、「戦争って何戦争?」、「ベトナム戦争?」、と訊かれてびっくりした事があります。アメリカでは、戦後と言えばベトナム戦争だ、ということが当時の新聞には載ったことがありましたが、日本でもそういう状況にある事を身をもって知り、また、娘は勉強熱心でしたし、成績も良い方だと認識していましたので、多くの若者がそのような認識だと思ったものです。(閑話休題)

 8月号(前編)には、いくつかの面白い話しが載っていました。
 記述の意味がどうであったかは別として、経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたのは昭和31年(1956年)また、昭和53年(1978年)といえば終戦から33年目。徴兵され参戦し、終戦時25歳だった人は、未だ58歳。多くの人の中に戦争の記憶が残っていた時代である、という事を頭に入れて読むとより興味深い、と思う。

(市井)戦争に負けたという事実が、どこまで現在を規定しているかという形で、戦後は終わっているか、終わっていないかと問うならば、それは終わっていないというのは明らかです。占領時代につくられた体制は、いまだに強固に続いています。
(岡野)母親たちや老人たちが子どもや孫を失った悲しみが、どういう形で鎮められたか。…。そういう親たちの、あるいは老人たちの悲しみの姿のトータルみたいなものが、ぼくの心の中に、年とともにだんだん重くなってくるような気がするんです。…。そういう意味では、戦後は全く終わっていないという思いがします。
(鶴見)…、まず浅いところだけをつかめば、いかから考えてみると、戦後はとても早く終わったとわたしは思うんです。それは朝鮮戦争が始まったときに、もう終っちゃったと思う。それはどういう表層かというと、教育制度の改革とか、学校制度の改革とか、財閥解体とか、いろいろであるでしょう。そういう制度上の改革は、もう朝鮮戦争が始まったときにストップした。(中略)戦後は表層に限っていえば、昭和二十五年で終った。
(市井)…、結果として出来ていった明治日本というのは、大量に生み出されたいわば文明開化現象、過去のものをすべて否定して欧化をよしとする態度、それは第二次大戦後と同じじゃないですか。
(玉城)…、どうも敗戦体験が都市生活と、それから農村生活者との間を現実には非常に割いた。これは日本の敗戦体験の非常に不幸なところだと思うんですけれども、つまり敗戦体験が結びつける筈のものが非常な溝を深めたという面が日本の場合はあると思うんですよ。
(金子)…、敗戦を二度やった感じがするんですよ。(略)わたしは昭和四十六年に沖縄に行ったんですが、(中略)沖縄というのは、昭和四十七年からあらためて戦後が始まったのだと私には思われるのです。…、これは硫黄島が玉砕したとか、サイパンが玉砕したということは、その単位が三万とか、四万の形での玉砕なんですが、沖縄の場合は三十五万。ですから、島中、まさしく、これは戦跡ですよね。(略)この女性は五十歳くらいですけれども、ひめゆり部隊の生き残りの先生なんです。わたしは死ぬまで戦争のことを語り続けていく義務があるから、語るというんですね。
(金子)大和の人は別なんだというように、絶えず回りからひしひしと囲まれるような、(中略)、佐藤栄作が沖縄返還を勝ち得たときに、これで日本の戦後は終ったといいましたけどね。沖縄にとってはこれから戦後は始まるのだというところがあったのでしょう。

2014年9月1日月曜日

笠井潔・白井聡の「日本劣化論」を読む


 日本(あるいは日本の○○)は、劣化している。最近よく使われる(言われる)言葉である。著者の一人が作家であり、元全共闘で構造改革派系の新左翼のイデオローグであった笠井潔という事もあり、興味を持って本屋で立ち読みしたところ面白そうなので、図書館で借りて読んだ。余談だが私の前に借りた人が数人おり、また、わたしの読了を6人の人が待っている。この手の本を読みたがる人が意外に多いのにビックリした。(閑話休題)
 もう一人の著者は白井聡という政治学者である。ウィキペディアを見るとレーニン論を著した人らしい。笠井は私と同じ団塊の世代(1948年生まれ)であるが、白井は1977年生まれ(現在37歳)とほぼ30歳若い。
 読んで見ると予想通り両者共になかなか鋭い論を展開しているが、元全共闘(元新左翼)とレーニン論を著している学者ではあるが、必ずしも反体制という分けではない彼ら自身の主張と合わないから気にくわない、あるいは間違っているから正しい見方を教えましょう、という感じである。もっとも、ウィキペディアに依れば、笠井は既にマルクス主義を放棄しているらしい。(閑話休題)
 章立ては、
第一章「日本の保守はいかに劣化しているのか」
第二章「日本の砦 天皇とアメリカ」
第三章「アジアで孤立する日本」
第四章「右と左がどちらも軟弱になる理由」
第五章「反知性主義の源流」
第六章「独立という思想へ」
 である。
 第一章で白井は、『現政権の「世界市民の一員として行動する」という方針は、日米同盟の強化とイコールになってしまっている。つまり世界=アメリカになってしまっていて(後略)』と述べ、笠井は『祖父より明らかに劣化している。』と言う。
 第二章では白井は、『僕が日本の対米従属をよろしくないと見なすのは、それが戦前の国体の構造とまったく同じになっているからです。』。そして、『戦前の天皇が占めていた地位に、戦後、アメリカが代入されたのです。……。アメリカの意思というのも、天皇の意思と同様というかそれ以上に一種のブラックボックスなんですね。』と言う。
 第三章では、日本は朝鮮や中国に負けたのであり、その事を認識すべきである。ルールは時代とともに変わりうるのであり、新しいルールに適応できない性格は色々な領域で現れるようにも見える、という。
 第四章では、右派の台頭は左派的なるものの退潮が指摘できる。社会党は政権奪取を本気でやろうとしていなかったし、できる見込みもなかった、と述べ、そして、左派の衰退は、いわゆる”マルクス主義”のせいだ、という(この論理はやや難しく充分には理解できませんでした)。
 この章では、とても納得できない論が展開されている。それは笠井の以下の様な論である。
『アメリカの属国である日本は、アメリカという半世界国家のもとで、「戦争を放棄」し続けました。言い換えれば憲法九条は。原理的に日米安保条約と相互補完的なのです。九条支持と安保反対は両立し得ない。これに反する立場は空想の彼方に舞い上がるしかありません。』
 確かに、憲法九条制定にあたって、そのような考えや経緯はあったかも知れない(それは不明だ)が、少なくとも九条があったからこそ70年近く日本は戦争をしないで来れたのも事実である(事実、この本でもアメリカに対してのExcuseとしての役割があった事を述べている)。そして、その憲法九条を支えたのは国民の声(あるいは声なき声)であった、と私は思う。
 第五章では、笠井は『僕にとっても八十九年は大きな曲がり角でした。(中略)マルクス主義批判は失効した。これからは社会思想的な立場を新たに創造しなければならないと考えて、『国家民営化論』を書いたわけです。』、と述べる。
 第六章では、沖縄独立論などが展開される。「かりゆしグループ」CEOの平良朝敬さんの話しとして、『辺野古の岬はリゾートとして価値があり、基地が返還されれば二万人の雇用が生まれる』、という話しが載っていて興味深い。また、笠井は『先ほど十九世紀は国民戦争、二十世紀は世界戦争だと要約しましたが、では二十一世紀の戦争はどうなるのか。カール・シュミットのいわゆる世界内戦が二十一世紀の戦争の形になるでしょう。、と述べる。それは、アメリカなどが企てた世界国家が失敗に終わったからだという。そして、駐屯地や基地の食事のみならず、軍事訓練をもアウトソーシングし始めている、という。つまり、国民国家の軍隊は国民の軍隊であるというのは、半ばフィクションになりつつあるというのも書かれているが、恐い話しである。
(注)この本では、国民戦争:国家間の利害対立解消のための手段、世界戦争:世界国家樹立のための手段、世界内戦:違法行為に対抗する合法国家の戦争が正義のための戦争、すなわち「正戦」、と定義されている

 この手の本を読んでみていつも思うのは、評論家・知識人や学者の話しは「岡目八目」あるいは「高みの見物」である、という事である。論じれど活動しないならば、何の意味をなすのだろうか。確かに人を啓発する面はあるが、無責任な意見も投げ散らされているのではないかという気がするのである。

2014年8月21日木曜日

多和田葉子「献灯使」(群像2014年8月号掲載)


 文芸雑誌「群像」の8月号(2014年)に掲載された。雑誌のHPには以下の様なコメントがある。
鎖国を続けるいつかの「日本」。ここでは老人は百歳を過ぎても健康で、子供たちは学校まで歩く体力もない。新しい世代に託された希望とは果たして? 多和田葉子「献灯使」、〈大きな過ちの未来〉を物語る問題作です。

 ここに書かれているように主人公である義郎(よしろう)は108歳、いつまで生き続けなければならないのか分からない。そして曾孫の無名(むめい)を育てている。無名が本当の主人公とも言える。彼の世代は非常にひ弱で歩くことも出来ず、食事も制限されている。義郎の妻、鞠華(まりか)はどこか別の場所の施設で子供たちの世話をしているらしい。孫の飛藻(とも)は日本のどこかを放浪しているらしい。娘の天南(あまな)は沖縄に住んでいる。沖縄は物が豊富らしい。
 各国はそれぞれ大変な問題を抱えており、それが世界中に広がらないように自分の内部で解決しようということが決まり、鎖国をしている。だから外国から物が輸入できなくなった日本は物資が不足している。そのなかで物が豊富な沖縄などはバーター取引ができる東北などとの交易はするが、関東とは余り取引しない。それ故、東京の中心部から人は周辺部に逃げてしまっている。外来語は禁止されているわけではないが、できる限り日本語が使われている。とても変な世界だ。
 曾孫の無名は突然に何かが起こり15歳になる。先生の夜那谷(よなたに)は、その無名を外国に送ろうとする。鎖国ではあるが、海外に行くことは禁止されてはいないらしい。彼らを「献灯使」というのだろうか?隣に住んでいた、好意を持った同世代の睡蓮(すいれん)は急にいなくなってしまったのだが、海の近くで再開する。彼女も「献灯使」だという事が分かる。彼女にも海外に一緒に行くことを誘われる。そこで物語は終わる。

 多和田の小説は、つい最近までは、個人的な体験を踏まえた、少しシュールな物語であった。だから、狙いや内容が多少分からなくても面白かった。しかし、ここ数作はどうも個人的体験というよりは世相を踏まえた作品になっている。説明調だから内容が理解できるできないに関わらず、面白い作品には仕上がっていない。高齢者の健康・医療、子供たちへの過保護、世界の政治・経済問題などに、彼女なりの主張があるのだろうが、本作品は駄作と思える。

2014年8月15日金曜日

河野裕子が登った大文字山

 朝日新聞の12日(2014年8月)の夕刊に「京ものがたり 河野裕子が登った大文字山」という記事が載っていた。
 ”五山の送り火”は、16日午後8時の大文字からスタートするとある。この記事は「大文字」の紹介なのだろうが、私は「河野裕子」を悼むためのものとしてスクラップした。彼女が亡くなったのは2010年8月12日。乳がんが再発、64歳の若さだった。それから、はや4年が経ったことになる。
 この記事には有名な最後の一首、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」を含めて四首が載っている。
 たったこれだけの家族であるよ子を二人あひだにおきて山道のぼる
 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざらばらんと髪とき眠る
 遺すのは子らと歌のみ蜩のこゑひとすぢに夕日に鳴けり

 夫である永田和宏の歌も載っている。
  かなしいが親子ではなく夫婦だとひとり飯食ふときに思う

 誰からも愛されたという。そして家族を愛し、歌を詠んだ河野裕子はもういない。

2014年8月14日木曜日

水村美苗の「續明暗」

 今年になって朝日新聞では漱石の「こころ」を100年ぶりに連載している。私も朝日新聞が無料配付している「こころノート」をもらい、スクラップしている。はや80回目という事で「こころノート」は3冊目になった。余談だが、孫が読めるようになったら、渡そうと思う。(閑話休題)
 そんなこともあるせいか、巷ではちょっとした「小さな漱石ブーム」になっていて、漱石に関する本の出版が今年は多いように見受けられる。

 ところで、漱石の「明暗」が彼の死によって未完に終わったのは周知の事実である。その未完の小説の続きを書き、終わらせたのが水村美苗である。 それは1990年に出版され話題になったが、私は「際物(きわもの)」ではないかと思い、直ぐには読まなかった。その後、続けて出した「私小説 from left to right」、「本格小説」も評判が良く、また2009年に出した日本語についての本3冊(「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」、「日本語で読むということ」、「日本語で書くということ」)もマスコミを賑わしたことから、初めて読む気になった(読んだのは2009年出版のちくま文庫版)。
 読むとこれが大変面白い。私は直ぐに水村美苗のファンになってしまった。その水村美苗のインタビューが、今週5回連載で朝日新聞の夕刊に載っている。
 初回(2014年8月11日掲載)には、書いたときの心境が載っている。
 「一番楽しみながら書けた小説」、「日本語で書く喜び」、「言葉を拾うために、漱石を毎日読む喜び」、「漱石は物語を離れた細部がとてもいいが、自分はまず物語を強く出さねばと」、「『明暗』は、ちょうど勢いづいたところで途切れている。続きが読めないのが腹立たしく、それが書き継ぐことを可能にした」等々。
 水村美苗は12歳から20年間アメリカに住んでいる(現在は日本在住)。その間にプリンストン大学でフランス文学を勉強すると共に、フランスにも留学。アメリカに戻ってからプリンストン大学の講師として近代日本文学を教えていた、という異色の経歴の持ち主であるが、若いときに日本の近代文学を読み、親しんだ。そして、その綺麗な日本語が、日常(アメリカでは)、話せないのを腹立たしく思っていた人間だから、「續明暗」が書けたのだと思う。是非、一読される事をお勧めする作品である。

2014年8月7日木曜日

河合俊雄「女のいない男たちのインターフェイスしない関係」(新潮2014年7月号掲載)


 6作中4作しか読んでいないのに(「シェラザード」と「女のいない男たち」は未読なのに)、評論を読むのは適切ではないかも知れないが、ガイダンスと思って読んで見た。
 作者は京都大学の教授で、臨床心理学者であり、その(ユング派の分析家の)観点から作品を解いていく。
 具体的には、「愛の対象が謎で、間接化されていて遠いという。一つの共通テーマから読み解く」、という。今回の作品の特徴は、「ノルウェイの森」のように第三者の立場から二者関係に入ってくるのではなく、主人公や話者があくまでも外にとどまり続けることである、という。第三者の存在によってこそ欲望が生まれるという分析(仮説)は通用しない。
 他者や自分の人生に対して関わらないようなデタッチメントというあり方に対して、これまでのハルキの作品はインターフェイスコミットメントを用意していたが、この作品ではそのいずれも起こらずデタッチメントのままでとどまるように思える、と述べる。しかし、テーマは後半の短編に向けて展開しているように思われる、とも述べる。最後から二つ目の「木野」では、「お店を閉めて、遠くまで行って、できるだけ頻繁に移動し、差出人の名前もメッセージもない絵葉書でけを送るように常連客から言われていた木野が、禁を破ることによって、誰かが夜中にホテルのドアをしつこくノックする」。いよいよ何かのインターフェイスが生じてきているようである、という。そして最後の「女のいない男たち」では、愛の謎が一気に解かれる。しかし、それはそれは同時に失われる。そして、この作品集は「祈り」で終わっていくのである、と結ぶ。
 この評論(?)はたった4ページしかないのだが、中身がぎゅっと詰まった缶詰のようであり、また心理学をベースにしているので私には分かりづらいところが多かった。

2014年7月28日月曜日

大西巨人「地獄変相奏鳴曲」(第一楽章〜第三楽章)を読む


 ここのところ、大西巨人の小説を読んでいる。
 彼の小説は、3作以外は、雑誌に掲載されるか、単行本や文庫本になったときに読んでいる。
 先月、「精神の氷点」を読んだので、あとは長編「地獄変相奏鳴曲」と短編集「二十一世紀前夜祭」だけになった。
 今月の初めに市の図書館から「地獄変相奏鳴曲」を借りて読み始めているのだが、これが意外と大部(原稿用紙にして約一千枚)であり、未だ読み終わらない。もっとも、借りて暫くは他の本を読んでいたのだし、読み始めてからも寝る前の数十分程度、しかも毎日読むわけではないのだから致し方ないのかも知れない。決して読みづらい分けではないのだが、”蘊蓄を傾ける”部分が多いのも、読みを遅くする原因の一つにもなっている。
 そうこうするうちに、2分冊(第一楽章~第三楽章と第四楽章)の講談社文芸文庫が刊行された。既に第三楽章までは読んでいたので、今は第四楽章の方を買って読んでいる(それというのも、図書館の本は保管が悪かったのか、特に天(あたま)の部分がカビで汚く、もうこれ以上読む気がしなくなったので)。
 広辞苑によると、奏鳴曲、つまりソナタというのは器楽曲の一形式で、第一楽章は急速な曲、第二楽章は緩やかな曲、第三楽章は急速で軽快な曲、第四楽章はロンド形式かその他の急速な曲が基本らしい。「地獄変相奏鳴曲」がそのような形式になっているかは、私には分からない。
 この作品も、巨人の他の作品同様、長い時間がかかって完成している。第一楽章「白日の序曲」は1948年10月に脱稿し、「近代文学」の同年12月号に掲載された。第二楽章「伝説の黄昏」の初稿は「新日本文学」1954年1月号、第三楽章「犠牲の座標」の初稿(「たたかいの犠牲」)は「新日本文学」1953年4月号に掲載されたが、第四楽章「閉幕の思想あるいは娃重島(あえしま)情死行」の発表(「娃重島(あえしま)情死行/あるいは閉幕の思想」)は1987年の「群像」8月号まで待たねばならなかった。
 また、この作品を、”連環体長篇小説”と銘打っているが、本当にそうなっているのか私には分からない。それというのも、長い時間を掛けて作り上げたせいか、それぞれの楽章の内容に強いつながりが感じられないし、書き方にも齟齬が見られるからである。
 巨人自身もそう感じたのか分からないが、「地獄篇三部作」の前書きで、『「白日の序曲」が本来の場所を占有した今日~今日以後、私は、「地獄変相奏鳴曲」を解体し、「伝説の黄昏」、「犠牲の座標」ならびに「閉幕の思想」の三篇を各独立の小説とする。』、と付記している。そして、「白日の序曲」は、本来の場所たる「地獄篇三部作」の第二部「無限地獄」として生まれ変わっている。

 第一楽章「白日の序曲」は、戦中に虚無的な思想に陥った主人公(23歳)が、その思想故に同じ会社(新聞社)の15歳の佐竹澄江を弄び、自殺に追いやってしまうが、戦後になり、そのことを悔いた主人公(29歳)が同じ会社(出版社)の12歳年下の香坂瑞枝を大切に思い、結婚を決意する、という物語である。主に太郎と澄江の経緯が描かれている。この物語が「精神の氷点」に書かれた物語と同じ内容になっているのは、ほぼ同じ時期の作品であり、当時、巨人の関心事が戦中に自信が陥った虚無主義の克服にあったせいではないかと思われる。
 第二楽章「伝説の黄昏」は、日本人民党員である主人公が自分の細胞(自分の活動となる地域組織)内で起こった部落問題を、第三楽章「犠牲の座標」は、サンフランシスコ講和条約批准や再軍備などに反対し、ストを打つ西海大学の闘争支援とそれに伴う大学当局の関係者処分問題を扱っている。
 巨人は1948年10月に日本共産党に入党、1952年4月には新日本文学会中央委員となる。そして、1961年に考え方の違いから党とは事実上の絶縁状態となり、また1972年2月に文学会を退会している。第二楽章及び第三楽章は、党と文学会の活動を精力的にしていた、まさにその時期の作品であるせいか、党員としての政治活動をそのままに描いた自由度の低い小説になっていて、第一楽章とも第四楽章とも内容や文章のタッチが大きく異なる。
 第四楽章は未だ読み始めたばかりであり、感想については次回触れたい。

 これら四つの楽章の主人公の名字は「税所(さいしょ)」、「新城(しんじょう)」、「大館(おおだて)」、「志貴(しき)」と異なるものの、名前はいずれも「太郎」である。作家の阿部和重は、「神聖喜劇」の主人公・東堂太郎も名前が「太郎」であり、『おなじでありながらちがう人物として、五人の「太郎」を別個の物語へ登場させたことにこそ、大西巨人の画期的な創意があると見る』、と言い、『「地獄変相奏鳴曲」が、「神聖喜劇」が持ち越すしかなかった問題を引き受けた、「別様の何か」であるのは間違いない。』、と言う。

2014年7月12日土曜日

追悼・大西巨人「虔ましい気高さについて」(高澤秀次:文學界2014年5月号)

 大分前に読んだのだが、大西巨人に対する追悼文の中でもっとも心惹かれた文章が、文芸評論家・高澤秀次の「虔(つつ)ましい気高さについて」であった。
 彼はこの文章の冒頭で大西巨人の死を以下の様に書き、追悼している。
「最後の戦後派作家・大西巨人の死は、彼自身の約七十年にわたる文学活動の終焉とともに、「戦後文学」の遺伝子が直接的には消滅したことを告知している。「戦後文学」の担い手は、理念と実践的な作品行為とが一体であることを自らに課し、「戦争と革命」という二十世紀の「大きな物語」を背負った文学世代だった。」
 そして、こうも言う。
「大西巨人の死によって改めて顕在化したのは、「政治と文学」が相拮抗し、文学の現場が同時代的な歴史段階に即応していた時代を「過去」とする、脱歴史化の不可逆的な潮流である。」
 大西巨人の死は「戦後文学」の様に、文学が社会や政治と対峙する時代が終わった事を告げている、というのである。私は、大西巨人の死を待たずに、そのような文学は消滅してしまっていた、と思うのだが、大西巨人の死が駄目押しとなった、というのは確かだろう。

 高澤は、大西巨人の政治態度についても以下の様に言及し、称えている。
「初代全学連委員長・武井昭夫を終生の友とした大西氏は、最も若い戦中派党員作家として戦後を出発した。だが、彼は「転向」を潜り抜けた戦後派の一部が、反ないしは非・共産党的なポーズを通じて、反スターリン主義の旗幟を鮮明にするのを尻目に、離党後も新左翼的な時代風潮に同化することはなかった。
(ついでの話しだが、この文章を読んで「縮図・インコ道理教」にでてくる亀島節義が武井昭夫をモデルにしてのではないか、と以前に書いたことが正しかった事を確認した)

 また、高澤は個人的に「春秋の花」という詞華集(アンソロジー)に最も愛着を感じてきた、という。
 この文章を読み、私もそのアンソロジーを読みたくなった。

2014年6月10日火曜日

湯浅学著「ボブ・ディラン ロックの精霊」(岩波新書、2013年11月刊)


 ボブ・ディランは1941年に生まれ、1961年にメジャー・デビューしてから現在まで50年以上活躍している米国人歌手である。ある一定の層には説明する必要もないようなビッグな存在である。
 ある一定の層とは、60年代から70年代にかけて青年時代を過ごした世代であり、またアメリカン・ロックを愛する人たちである。私は60年代後半に大学に入学したのでボブ・ディランの名前は勿論知っている。パソコン(及びiPod touch)には彼のアルバムTHE TIMES THEY ARE A-CHANGIN'が入っているし、高石ともやや岡林信康などの日本語訳の歌も聴いている。大分昔になるが、三橋和夫による「60年代のボブ・ディラン」(シンコー・ミュージック発行のロック文庫シリーズ)も読んでいる。
 しかし、私はボブの良きリスナーではない。それというのも、英語のリスニングが殆ど駄目で理解できていないからだ。この本の著者である湯浅学は、「曲作りはまず詞作から始まる。ボブの場合、言葉のないところから曲は生まれない。突然湧いてくる、という。」と書いている(204頁)。ボブの歌では詞を理解することが大事なのだ。
 しかも、歌そのものも真面目に(?)聴いていない。聴いたのは、学生時代にラジオから流れて来た歌とアルバム「THE TIMES THEY ARE A-CHANGIN'」だけである。
 ドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」2005年製作・公開)もレンタルしたが、コピーしたまま見ていない。NHK BSプレミアムで放送された「ボブ・ディラン30周年記念コンサート」も録画したままである。
 だから、まずは彼の歌を聴くべきなのだろうが、この本を読んでそのきっかけをつかみたかった。ボブがどんな考えでどんな曲を作っているのか。その曲が音楽史の中でどんな位置を占めるのか。

 ボブの60年代は音楽的にだけではなく注目された時代であるため、この本でもそういった周辺の事情についても頁を費やしているが、時代が進むに連れて音楽的な話しやライナーノーツ的な解説が多くなってくる。
著者はあとがきで、「『自伝』は本書の背骨の何割かを成している。」、と書いているが60年代は別として、後半は特に『自伝』によるところが多いのかも知れない。この『自伝』とは『ボブ・ディラン自伝』(2005年ソフトバンクパブリッシング刊、原本は2004年発行のChronicles: Volume One)。
 音楽的な話しになれば、曲を聴いていなければ分かるわけもないが、それでも何となく私の望みは達成された様にも思う。
 この本はボブ・ディランを知りたいと想う人、既にファンになっている人にお勧めの一冊であるのは間違いがない。

 ついでの話しだが、私はこの本で初めて、ボブが二〇〇八年四月「類い稀なる詩の力を持つリリカルな作品の数々によりポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に重大な影響を与えた、としてピューリッツァー賞の特別賞を受賞」したことと、「二〇一二年にはアメリカ国民として最高位にあたる、大統領自由勲章も受章」したこと、「九六年以来、毎年のようにノーベル文学賞の下馬評にボブの名が挙がるが、まだ受賞には至っていない」こと(248頁)、を知った。

2014年6月2日月曜日

秋山駿の地声(新潮2013年12月号より)

 文芸雑誌・新潮の2013年12月号に山城むつみという文芸評論家が「秋山駿の地声」と題して文芸評論家・秋山駿に対する追悼文を書いている。
 それを見て「ああ、そんな事があった」、と思い出した事があった。殺人を犯し、死刑になった永山則夫の日本文藝家協会入会問題である。
 協会は永山が殺人事件の刑事被告人である事を理由に彼の入会を拒んだ。それに対して何人かの会員が退会した。山城の文を読むと、中上健次、柄谷行人、筒井康隆、井口時男の4名の名前が挙げられている。
 永山は”裁判を有利にするために入会を利用している”と協会が誤解しているので辞退する、と言ったらしい。
 秋山駿はそれに対して、「何を言うのか、と思った。あなたの犯行は、自分の心の声がすべて社会によって誤解され、ついに出口の無くなったところに生じた行為ではないのか、いまさら「誤解」されたくないとは、何を言っているのか。(略)」、と「永山則夫と私」に書いた、という。秋山は信念の人であった。そして、ドストエフスキーの小説に出てくる犯罪者や小松川女高生殺しの犯人である李珍宇など、心に闇を持っている者を理解し、彼らに共感を覚えていた。

2014年5月27日火曜日

大西巨人「縮図・インコ道理教」


 大西巨人の本をいくつか読んだ人ならば理解できるだろうが、「神聖喜劇」を除いて彼の作品は「小説」と言えるのだろうか? かといって評論ではない。彼の主義主張、哲学がそのまま隠されずに述べられている物語だ。しかも年を重ねる毎にそのような「小説」になって行ったような気がする。勿論、人物や組織の名前は変えられてはいる。変えられてはいるが、ある程度知見のあるものがしつこく調べたならば分かってしまうだろう。分からなくても面白い作品もないではないが、その多くは分からないとつまらない。
 加えて、言葉や事象を微に入り細に入り説明するため、話しの動きが遅く、またあっちにいったりこっちに行ったりする。だから読みにくい。でも根気よく読み続けたならば、決して面白くないわけではない。

 文芸雑誌「すばる」の5月号には、作家の阿部和重と文芸評論家の高橋敏夫が追悼文を載せているが、阿倍は「「縮図・インコ道理教」は文学における真のリアリズムを最良の形で再現した傑作となった。」、と書いている。
 私が今まで読んだのは、「神聖喜劇」、「天路の奈落」、「三位一体の神話」、「五里霧」、「迷宮」、「深淵」、「地獄篇三部作」の7作である。「縮図・インコ道理教」は「オウム真理教」の話しと想像させられて読んでなかった。
 しかし、その想像は裏切られた。話しにはいくつかのトピックがある、それらは、天皇制、樋口一葉、文壇の垣、近親憎悪、殺人などである。とりわけ「近親憎悪」に関する論議が多い。具体的には作家・大圃宋席宛ての当代文学会員Bの書信の中に書いてある「インコ道理教という宗教団体にたいする国家権力の出方を、私は、「近親憎悪」という言葉で理会してきました。」という文章の「近親憎悪」についての論議だ。しかし、ここに論議は集中するものの、真の意味は提示されず、最終章の題意でこの作品の主題が明かされる。即ち、「縮図」とは「皇国の縮図」の意であり、「皇国」と「インコ道理教」はいずれも宗教団体であり、戦争での殺人とテロによる殺人とにどれほどの差があるのか、という問いである。
 大西のこの本の狙いは、今も天皇制が維持されている事への苛立ちを示す事であり、憲法改悪への対応をどうするかを示す事である、と私は思う。

追悼 大西巨人(群像2014年5月号)

 群像2014年5月号には、3月に亡くなった大西巨人に対する3氏の追悼記事が載っていた。3氏とは作家の保坂和志、評論家でエッセイストの坪内祐三、文芸評論家の池田雄一氏だ。
 その中で、坪内氏の文章で気になる所があった。彼が書いた光文社版「神聖喜劇」第五巻の解説(*)について、大西巨人が ”四十年振りの喜びを覚えた” というくだりである。
 坪内氏は「この一節を目にした時、私は、嬉しいというよりも本当に驚いた。まさか大西氏に喜んでもらえたとは!」と書いている。私は大西巨人に会ったことも話を聞いたこともないけれど、その小説の書きっぷりから、私にも彼が人を褒める事があるなんて信じがたい。でも、それは事実であった。それが書かれたタブロイド判「思想運動」がどんなものかと思って調べていると、大西巨人自らが主催しているホームページ「大西巨人/巨人館」に行き当たった。そして、その文章が再録されていた
 そこには以下の様に書かれていた。
さて、「光文社文庫」版第五巻の「解説」は、坪内祐三《つぼうちゆうぞう》氏――私の未知未見・文通類も皆無・だがその文業のことは重々承知の人物――の執筆である。その「解説」は、次ぎのように結ばれている。


 私は、第一巻の終わり、十九歳の夏に東堂が、母方の叔父を荼毘《だび》に附する火葬場でダシル・ハメットの『血の収穫』を読んでいたシーンが、つまり、「しかし火葬場行きの私がたずさえていたのは、ダシル・ハメット作“Red Harvest”であった」というたった一行が、脳裏に強く焼きついて離れない。これからも、繰り返し、時どき、そのシーンのことを思い出すことになるだろう。

 同様の読後感を持った人が、ほかにも多少は、いたであろう。しかし、こういう「作者私のモティーフというか作意というか確信」に相渉《あいわた》った読後感が私の耳目に触れたのは、笠氏の読後感このかた約四十年ぶりのことであった。すなわち作者私は、同根同質の大きい喜びを四十年ぶり・二度目に覚えたのである。

(*)私が持っている「光文社文庫」版第五巻の解説を見てみると確かに坪内氏が書いている。しかし、
  今はそれを読む余裕がない。後で時間のある時に読んで見たい

 もう一つ気になったのは、その「思想運動」なるタブロイド紙の発行人である。なぜなら、その「思想運動」は、単行本「縮図・インコ道理教」(太田出版2005年発行)の109頁に出てくる「亀島は、《実践人集団・思想鍛錬》の創設者であり、…」、という文章につながるのではないか、と思ったからだ。その文章の後に、現代日本人名辞典の亀山節義の項目が載っているが、最後に新聞「思想鍛錬」、雑誌「社会公論」などで活動、とある。
 大西巨人の作品の中の事柄や人物は、多少モディファイされているものの、ほぼ全てが実在の事柄や人物と考えて良いであろう。それを突き止めれば話しが分かり易くなったり、面白く感じられる面もあろうが、私はこの手法は好まない。
 結局、この亀島なる人物は、共産主義者であり評論家の武井昭夫(全学連初代委員長、2010年没)を指しているのではないかという所に行きついた。武井は、生前、活動家集団の創設者であり、機関紙「思想運動」、機関誌「社会評論」を発行していた。だから、何だというのは別の項目で考察してみたい。

惜別 大西巨人

 朝日新聞では毎月1回(?)、”惜別”という欄を設け、数ヵ月前に亡くなった有名人についての「人となり」を載せている。
 5月17日には3月12日に亡くなった作家・大西巨人の記事が載っていた。大西巨人は「神聖喜劇」で一躍有名になったが、遅筆でなかなか仕上がらず、原稿料が入らないため、極貧生活を余儀なくされていた、というのは有名な話しだが、『極貧であっても精神は贅沢に』の見出しの下、光文社の元編集者、浜井武さんの「前借りする時も、貸す方より堂々として、いいたばこなんか吸ってる。(略)」、という話しが載っていてちょっと驚かされた。
 余分な話しかもしれないが、本名は「のりと」、というらしい。多分、「巨人」を「のりと」と読ませるのだろう。漢和辞典「漢字源」に依れば「巨(のり)」というのは、「I型のさしがね。じょうぎ。」を指すらしい。また、「矩」も「のり」と訓読みし、意味は「一定の規準。かどめ。コースや、わく。」、とある。

追悼 秋山駿


 今年の2月に発行された三田文學2014冬季号は、昨年10月に亡くなられた文芸評論家秋山駿を追悼し、文芸評論家の富岡幸一郎、勝又浩、作家の岳真也、元日経新聞文化部編集委員の浦田憲治の4氏の寄稿と同誌昭和482月号に掲載した秋山駿の講演速記加筆「現代文学と内向の世代」を載せている。

 秋山駿と言っても多くの方はご存じないかも知れない。私が彼の作品を良く読んだのは19601970年代であり、単行本ではなく雑誌の掲載文が多かった。当時でもごく限られた人にしか知られていなかったし、ましてや文芸評論家というものの世の中の認知がなくなりつつある現代に至っては尚更である。文壇というものが無くなったばかりではなく、色々なカルチュアが氾濫している今日では、純文学という狭いカルチュアだけを対象にしていては、評論というものが成り立たなくなっている、という事も文芸評論家という存在を希薄にしているようにも思う。もっとも、80年代くらいまでは、紙に書かれた作品を高みから見て、あれやこれや批評するのが評論だと世の中が誤解していた節がないでもない。私もその一人ではある。評論とは社会現象や小説などを対象とはするものの、その批評の中で自分を語るものだと気がついたのは、数年前である。

 前置きが長くなったが、秋山駿は、人間の内奥に潜むものを探りながら、日常の何気ない場所に埋め込まれた無名者の声に耳を傾けていた、と富岡幸一郎は書いている。動機なき殺人などを対象とされたのもそのような意味からであったろうと思う。
 秋山駿は戦後文学、第三の新人、内向の世代の文学を対象にして語る面も多かった。一時はそのような文学に光が当たらなくなっていたが、最近になって、小島信夫や安岡章太郎、庄野潤三などの第三の新人に眼を向ける若者も出てきたとの話しもある。もっとも、それは村上春樹が彼らの小説を好んでいる、という事に帰因しているからかも知れないが。

 いずれにせよ秋山駿は83歳で亡くなってしまって、もうこの世にはいない。今、私の本棚を覗いて見えるのは彼の声が載っている何冊かの三田文學だけである。
・インタビュー「私の文学を語る」(インタビュア:秋山駿)
 三島由紀夫(昭和434月号)、高橋和巳(昭和4310月号)、北杜夫(昭和441月号)、井上光晴(昭和442月号)、大岡昇平(昭和443月号)
座談会「戦後文学の流れ」(出席者:秋山駿、田久保英夫、上総英郎、中上健次)(昭和452月号)
評論「架空の行為と死−連合赤軍事件を素材に−」(昭和476月号)

2014年3月30日日曜日

品川正治「激突の時代」


  2月のある日、本屋で見かけて読みたいと思った。それは『「人間の眼」と「国家の眼」』という対立的考えと著者の経歴である。

 著者品川正治(しながわまさじ)は、日本火災海上保険で社長、会長、経済同友会の副会長理事・専務理事まで務めた人である。残念ながら、この著作を世に出す前の昨年8月に89歳でお亡くなりになられた。

 彼は「損保九条の会」を立ち上げ、「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)の代表世話人を務め、新自由主義的な経済政策への批判や平和主義や護憲の立場からの発言や運動を行っていたらしい。「らしい」と書いたのは、私はつい最近まで知らなかったからである。

 この本は二部構成からなる。
 第一部は、著者が1948年に上原中学で教えた生徒への授業『日本の外交、政治、経済を見る「眼」六五年後の「社会科授業」』(201210月)、第二部は「損保九条の会」主催の四回の連続講座『「人間の眼」VS.「国家の眼」』(20088月〜20103月)である。
 著者は一貫して「人間」という視点で外交、政治、経済を見つめている。
 内容については、直接、本を読まれることをお勧めするが、以下の様な示唆的な事が書かれている。
日本は、第二次世界大戦で行った事について、米ソに対しては、国民感情として“免罪符”を持っているが、アジアの人に対しては“免罪符”はなく、“贖罪”を感じなければいけない
日米安保は日本の国益と言うよりはアメリカの国益になっている。金融資本が国家権力を握っている場合のアメリカの国益とは何なのかは良く考えるべきである
日本では「政局」のみを「政治」として報道してきた。しかし、原発反対運動やオスプレイ配備反対に何万人もの人が集まるのが政治ではないか
リーマン・ショックの際に、AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が国家に救済されたのは、戦争保険を請け負っているからである
グローバリズムとは「アメリカ型の経済システム」=「アメリカが勝つための戦略用語」である
日本の憲法九条は戦争を「人間の眼」で見ている。他の国は「国家の眼」で見ている。
「六〇年安保」で「戦争が出来る国」にしようとしていると感じ取ったりしながら、六〇年間、風雨にさらされながらも守ってきて、「「人間の眼」で見た憲法」に育て上げてきた
労働者に賃金を支払い、経済活動するのが資本主義の基本なのに、働く人たちの預貯金を、金利ゼロで企業に貸し、しかも企業はデリバティブという投機で利益をあげるのは、資本主義とは言えないのではないか
経済を市場中心に考えてゆくことに関しては肯定的であるが、教育だとか医療だとか福祉、あるいは環境、農業は市場が決めるものではない
「生産は人間、消費も人間」ということを哲学にしている。最低限、結婚し、家庭を持ち子どもを生む、それを育ててゆくという、ごく普通の当然の生活を維持することが経済であり、政治である。そのことが可能になる賃金でなければならない
マスコミは対米従属、超大企業従属を体質にしまっている。いわば反共という問題を基本的に軸にもっている。しかし、反共という論理でいろいろな問題を説明しても国民がついてこないので、今は無視という形をとっている。「九条の会」にしろ「革新懇の会」にしろ、何をしようと、そういうものに関しては、いっさい報道しないという態度になって表れている

 まだまだあるが、抜き出したらきりがない。私はこれらの主張の殆どに共感する。
 これらの主張は企業のトップとして勤めてきた人の経験に裏打ちされていて説得力がある。

 しかし、財界の要人でもあった彼が、何故、最近になってこのような発言や活動を展開したかという事である。昔であれば「転向」と言われたのではないか?
 この事に関して、彼は「あとがきに代えて」に以下の様に書いている。
労組の専従を10年ほどやった
労組をやると決めてから関西の労働学校に入って本格的に勉強し、たたかう組合の委員長として活動した
全損保(全日本損害保険労働組合)というのは、総評加盟なども反対でもっと左だった
ところが会社が内紛からの不祥事件で事業免許を取り上げられてしまった
労組が清算管理をやることになり経営を預かった
沖縄の基地問題をどういうふうに見てゆくかということなどは60年前から考えていた

 彼としては一貫しているらしい。