2017年12月13日水曜日

世界から見た日本文学(3)

「村上春樹以後ーアメリカにおける現代日本文学」都甲幸治(早大文学学術院教授、69年生まれ)

 都甲幸治は翻訳者でもあり、村上春樹についても関心が深い。彼はこの稿で、日本文学に対して世界がどう見ているかを、具体的な内容をもとに論じている。
1)書店での売り上げ
(米国のアマゾンの日本文学トップ100ランキング:2017年9月12日アクセス)
 1.遠藤周作「沈黙」(映画化の影響)
 2.村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
 3.谷崎潤一郎「痴人の愛」
 4.夏目漱石「こころ」
 5.夏目漱石「吾輩は猫である」(電子版)
 6.吉本ばなな「キッチン」
 7.川原礫「ソードアート・オンライン」(第2巻)*ライトノベル
 8.吉川英治「宮本武蔵」
 9.吉川英治「宮本武蔵」(電子版)
 10.紫式部「源氏物語」
 都甲もいろいろとコメントはしているのだが、私はそれ以上にビックリのベストテンである。川原礫って誰、という感じだ。知らない。漱石や谷崎って、そんなに読まれているの。いくらサムライ文化に関心があると言っても、吉川英治を読むの。私は全くと言っていいほど読んでいない。
 源氏物語も予想外だ。英語に訳してしまえば、口語と文語の壁は存在しないからだ、と都甲は書いている。ベスト100には、徒然草(17位)、枕草子(28位)、更級日記(70位)、松尾芭蕉「俳句集」(82位)、と古典文学が結構入っている。
 近代文学は、
 漱石:坊ちゃん(41位)、硝子戸の中(電子版)(68位)、草枕(81位)
 谷崎:細雪(32位)、蓼喰う虫(39位)、短編集(55位)台所太平記(91位)
 三島由紀夫:潮騒(18位)、午後の曳航(19位)、春の雪(26位)奔馬(53位)、真夏の死(59位)、禁色(76位)、金閣寺(97位)、
と意外と健闘している。
 一方、現代文学は全く振るわない、と都甲は書く。
 村上春樹:1Q84(36位)、風の歌を聴け・1973年のピンボール(45位)
 吉本ばなな:みずうみ(71位) 多和田葉子:雪の練習生(24位) 嶽本野ばら:下妻物語(93位)
 ミステリーでは、まるで日本のランキングのようだ、と言う。
 横山秀夫:64(15位) 高見広春:バトル・ロワイヤル(37位) 東野圭吾:容疑者Xの献身(40位) 誉田哲也:ソウルケイジ(80位) 綾辻行人:Another(86位) 宮部みゆき:龍は眠る(87位)
 ライトノベルでは、
 アネコユサギ:盾の勇者の成り上がり(27位) 大森藤ノ:ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか(37位) 支倉凍砂:狼と香辛料(42位)、となっているが、私には全くわからない。
 都甲曰く、アメリカでは3種類の日本文学愛好者がいる。すなわち、純文学愛好者、ミステリー愛好者、オタク系の読者。

2)英語圏の文学賞
 純文学では、村上春樹が強いと言う。
 「めくらやなぎと眠る女」で、2006年にフランク・オコナー国際短編賞受賞ほか、いくつかの賞で候補もしくは最終候補になった。
 次には小川洋子
 「ダイヴィング・プール」で、2008年にシャーリー・ジャクソン賞受賞ほか、二つの賞で最終候補になった。
 現在、評価を上げているのは川上弘美で、二つの賞で最終候補になった。
 もちろん、大江健三郎も評価が高い、と言う。二つの賞で、候補、最終候補になった。
 ミステリーでは、中村文則が特定の作品ではなく、貢献度でデイヴィッド・L・グーディス賞受賞(2014年)、鈴木光司が「エッジ」でシャーリー・ジャクソン賞受賞(2012年)、伊藤計劃が「ハーモニー」でフィリップ・K・ディック賞受賞(2010年)、円城塔が「セルフリファレンス・エンジン」で同賞を受賞(2013年)している。

3)新聞・雑誌の書評(英語圏)
 村上春樹については、毀誉褒貶がある。小川洋子については、高く評価されている。多和田葉子の「雪の練習生」の扱いは破格である、という。水村美苗の「本格小説」については、日本文学の伝統と西洋文学の理想の二つをともに見事に実現していると評されている。村上龍の「オーディション」に対しては、フェミニズムが浸透している西洋では考えられない女性の描き方である、と評される。
 ミステリーでは、横山秀夫、東野圭吾、湊かなえなどの作品について評されている。桐野夏生も読まれているが、中村文則の「王国」、「掏摸」や吉田修一の「悪人」が犯罪小説として売られる素地が英語圏にはできている、と言う。

4)雑誌・アンソロジー・小出版社
 雑誌への掲載は、
 「ニューヨーカー」(アメリカ):村上春樹20回以上、小川洋子2回、村上龍1回
 二人だけではなく、次の作家たちも雑誌特集号やウェブサイト、アンソロジーで紹介されているという。
 村田沙耶香、岡田利規、中島京子、小山田浩子、本谷有希子、星野智幸、藤野可織、島田雅彦、角田光代、黒田夏子、堀江敏幸、目取真俊、松家仁之、綿矢りさ、柴崎友香、古川日出男、川上未映子、平野啓一郎、松田青子、小野正嗣、窪美澄

 アメリカでも村上春樹が他を押しのけて圧倒的な存在になっているのだろうという、先入観は、実際に調べてみると、上記のように見事に覆された、と結びに書いている。
(結論を要約するのは難しく、画像を参照願いたい) 

2017年12月11日月曜日

世界から見た日本文学(2)

「ヨーロッパの片隅で村上春樹とノーベル賞と世界文学のことを考えたーウクライナ、リヴィウより」沼野充義(東大大学院教授、54年生まれ)

 沼野充義は、村上春樹について論じることが多い、評論家でもある。
 外国で村上文学が人気の高い理由として、普遍性と特殊性の絶妙ブレンドであると言う。つまり、世界でも通用する、世界のどこで起こってもいいような物語でありながら、その一方で品のいい日本らしい「エグゾティック」なフレーバーもうっすらと感じられ、その両者を渾然と織りなす作品構成が天才的だ、と言う。
 しかし、この稿では、「村上春樹はノーベル賞を受賞するだろうか」という問いに対して、私は懐疑的な答え方をするのが常である、と書いている。そのいくつかの理由を掲げている。
1)「大衆文学」と見なされるようなベストセラーの著者に与えられる賞ではない
2)スウェーデンのインテリが決める賞である
3)「理想主義的な傾向のもっともすぐれた作品を創作した人物」に与えられる
4)最近は、ヨーロッパ周縁の小国やアジア・アフリカにも賞が行くようになり、女性の受賞も増えてきた

 これらを踏まえて、幾人かの候補者を挙げている。例えば、
韓国の高銀(コウン)、アルバニアのイスマイル・カダレ、シリア出身のアドニス、ケニアのグギ・ワ・ジオンゴ、エストニアのカプリンスキ、ルーマニアのカルタレスク。
また、日本では、石牟礼道子、小川洋子、多和田葉子、谷川俊太郎 である。

 村上春樹については、現在のノーベル賞委員会の倫理観では、彼の作品が十分理解されているとはいいがたいように思う、と書いている。特にネックになるのは、セックス描写や女性の扱い方ではないか、とも書いている。


2017年12月9日土曜日

世界から見た日本文学(1)

 文學界11月号(2017年)では、「世界から見た日本文学」 大江健三郎、村上春樹から「越境作家」まで という特集を組んでいて、以下の文が載っている。
1対談「なぜ日本語で書くか」
 リービ英雄(作家、50年生まれ)x温又柔(おん ゆうじゅう)(作家、80年生まれ)
2「「日本語文学」は亡びるか」インタビュー水村美苗(作家、51年生まれ)
3「ヨーロッパの片隅で村上春樹とノーベル賞と世界文学のことを考えた
  ーウクライナ、リヴィウより」沼野充義(東大大学院教授、54年生まれ)
4「村上春樹以後ーアメリカにおける現代日本文学」
  都甲幸治(早大文学学術院教授、69年生まれ)
5「読書の耐えられない軽さーセルビア語、ロシア語、日本語」 
  髙橋ブランカ(作家、70年生まれ)

 読んでから時間が経っているので曖昧になっているが、記憶をたどって全体の印象を書くと、
世界から見られている(世界で読まれている)現代日本の文学作家は、もはや村上春樹だけではないし、
ノーベル賞は世界各地で多く出版されているとか読まれているとかが基準ではなく、
ノーベル賞は単なる世界の一つの文学賞であるにすぎなく、公平に選ばれているわけでもないし、
日本文学は世界の中の文学として独特な文化を表現している部分を含めた地域性も保持しなければならない、
というようなものだったように思う。
 個別タームとしては、多言語、グローバル、地域性、個人のアイデンティティ、女性(ジェンダー)、大きなテーマ、だろうか?

 個別詳細は、次のブログ以降で(除く2及び5)

2017年10月29日日曜日

第157回(平成29年度上半期)芥川賞受賞作 沼田真佑「影裏」

 受賞作すべてというわけではないが、これまでかなりの芥川賞作品を読んできた。
 発表と同時に読み始めたのは、高井有一の「北の河」だったか、丸山健二の「夏の流れ」からだったと思う。「夏の流れ」に関しては、それまでの最年少(23歳)受賞ということもあり、また内容、文章ともに新鮮に感じ、卒業して間もなく、高校時代の恩師(国語、書道担当)の自宅を訪問した際に、僭越ながら、一読するよう勧めた記憶がある。
 今回の受賞作は、近年続いた、やや奇を衒った作品と違い、文章も落ち着いていて、内容も日常生活に根ざしていた。楽しく読ませてもらった
 主人公は、薬品を取り扱っている会社勤めで、東京の親会社から三年の予定で盛岡に出向で来ている。ふと会社で知り合った日浅は、四十過ぎの現地採用の非正規社員。釣り好きな彼に連れられて、主人公はあちこちに行き、自分も好きになる。しかし、日浅は、今の会社での地位に将来性のないことから、転職してしまう。その後、日浅の動向や再会、主人公の性慾傾向、東日本大震災以降の日浅の行方不明などが綴られる。

 選者の山田詠美、吉田修一が言っているように、受賞者の文章や語りは上手い。しかし、村上龍が言っているように、「作家が伝えようとしたこと」は、「発見」出来なかった。この作品が処女作ということなので、次作に期待したい

2017年9月18日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第十回/最終回)(「群像」2017年9月号掲載)

 現れた北欧風の美女はクヌートの母であった。彼女はナヌークの学費を援助していたので、そこに彼がいたことにビックリする。クヌートが、言語の国際研究チームの学会に行く、と言ってアルルに出かけたからだ。
 母親はHirukoとSusanooが恋人同士だと思っていたところに、ナヌークの恋人だというノラが現れたり、クヌートの恋人だというアカッシュが現れたりしてビックリする。実はナヌークが好きなのは、Hirukoであり、Hirukoもナヌークが好きなのだが。
 Susanooは相も変わらず話すことができない中、6人による色々な言語での会話が飛び交う。
 アカッシュはSusannoの唇を読んで、彼が失語症の研究所に行ってみたい、と理解する。そして、最後に、彼と一緒にみんなで旅に出ようと、Hirukoが言う。

 これは、多言語が飛び交う世界の旅の物語だ。本当はもっと物語は続くのだろうが、10回という出版社との約束の回数が来てしまい、忙しく店じまいしたのだろう。この続きの物語を読んでみたい。

2017年9月11日月曜日

桐野夏生 著「夜の谷を行く」

お勧め度:まあお勧め
テーマ:社会的
ストーリー:面白い
プロット、文体:特筆すべきことなし

 一年ちょっと前くらいから桐野夏生の小説を読むようになった。社会性のあるテーマを扱いながら、内容はエンターテイメントであり、気を張りたくない時、読みやすいためだ
 彼女は、今年の文藝・秋号の特集「現代文学地図2000→2020」の現代文学地図(シーン)2017では、社会・物語象限の左上に位置取りされている。
 この作品の主人公が「連合赤軍」事件の脱走者をであることから、読んでみようという気になった。新聞や雑誌の書評欄の多くで取り上げられたのであろう、図書館の貸し出し予約が100人近くになっていた。
 女性の視点からの取り上げられ方がユニークであり、楽しく読んだ。
 しかし、当初期待した内容とは違って、事件全体に対する視点というよりは、妹や姪、昔の同志などとの感情の違い、スポーツジムでの人間関係などに対する個人的な視点からのストーリーとなっていたのは残念だった。
 そして、余分とも言える、驚くような結末。これは実録ではなく、間違いなくフィクションである。

著者インタビュー(AERA.dot)

 連合赤軍がひき起こした「あさま山荘」事件から四十年余。
 その直前、山岳地帯で行なわれた「総括」と称する内部メンバー同士での批判により、12名がリンチで死亡した。
 西田啓子は「総括」から逃げ出してきた一人だった。
 親戚からはつまはじきにされ、両親は早くに亡くなり、いまはスポーツジムに通いながら、一人で細々と暮している。かろうじて妹の和子と、その娘・佳絵と交流はあるが、佳絵には過去を告げていない。
そんな中、元連合赤軍のメンバー・熊谷千代治から突然連絡がくる。時を同じくして、元連合赤軍最高幹部の永田洋子死刑囚が死亡したとニュースが流れる。
 過去と決別したはずだった啓子だが、佳絵の結婚を機に逮捕されたことを告げ、関係がぎくしゃくし始める。さらには、結婚式をする予定のサイパンに、過去に起こした罪で逮捕される可能性があり、行けないことが発覚する。過去の恋人・久間伸郎や、連合赤軍について調べているライター・古市洋造から連絡があり、敬子は過去と直面せずにはいられなくなる。
 いま明かされる「山岳ベース」で起こった出来事。「総括」とは何だったのか。集った女たちが夢見たものとは――。啓子は何を思い、何と戦っていたのか。
 桐野夏生が挑む、「連合赤軍」の真実。

2017年8月21日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第九回)(「群像」2017年8月号掲載)

 今更言うのもおかしいが、多和田の作品を読むと、いつも言語について考えさせられる(と、いってもそんなに真剣に考えたことはないが)。その理由が、ほとんどの作品の主題が言語についてであり、仮に言葉が主題でなくても、いかにコミュニケーションをとるかについてである。それは、人間対人間でない場合もある。

 この章では、Hirukoがアルルまで行って、同じ言語を発すると思われるSusanooに会って、話しをする場面で費やされる。話しをする、と言っても、何故かSusanooは言葉を発しない。声が出ないのか、言葉を見つけられないのか、しゃべるのが嫌なのか、分からない。ただ、ナヌークの発した、「ふるさと、PRセンター、ロボット、発電、造船」という単語の並びに反応する。

 言語以外でもコミュニケーションはとれるが、人間にとって、言語はもっとも手軽なツールだ。中でも母語は。
 多和田のように多言語を操られる人間は、そう多くはない。もちろん、西欧人では意外に多いのだが。理由は簡単だ。それぞれの言語のルーツが同じだったりして、単語や文法が似ているからだ。日本語は特殊である。言葉の並びが英語などの西欧の言語と異なる。韓国語(朝鮮語)やモンゴル語と同じではるが。だから、HirukoはSusanooと話したいのだ、もちろん、出身の島の動向が知りたいからだが。
 Susanooが言葉を発しないのは、何故か。そして、この章の最後に現れた、北欧風の四十半ば、と思われる女性は、その理由を知っているのだろうか。

 次号がいよいよ最終章らしい。

2017年7月27日木曜日

桐野夏生 著「デンジャラス」(2017年6月初版)

 女性に非常に(異常に)興味を持っている、高齢の大作家のどろどろした性の実態が暴かれているのかと思って期待していたのだが、違っていた。これは、女性作家だからこそ書ける、谷崎王国(谷崎を取り巻く女たち)の女の闘いの物語である。物語を進行するのは、谷崎の最後の妻である松子の妹、重子
 第一章、第二章は、淡々と語られるが、第三章「狂ひけん人の心」に到って、重子も冷静さを欠いていく。「瘋癲老人日記」の基となった、松子の連れ子である田邊清一の嫁、千萬子と谷崎の速達による手紙の交換が始まり、谷崎が千萬子の言いなりに物を買い与え、最後には家まで買い与えてしまうからだ。
 最後に勝利するのは誰か。それは、読んでみて、それぞれが感じるものだから、ここでは明らかにしない。

 私は、「細雪」や「瘋癲老人日記」も、巻末に記された主要参考文献の一つも、読んでいない。しかし、これは、谷崎と取り巻く女性たちの間の真実のできごとや姿を暴いたものではなく、かなりフィクションを交えていると私は思う。余りにも千萬子を悪く描いているにもかかわらず、著者が、巻末の謝辞に、「この本を書くにあたりまして、渡辺千萬子さん、高萩たをりさんには、大変お世話になりました。(後略)」と書いているからだ。
 期待はずれではあったが、はらはらどきどきしながら、一気に読むことができた。エンタテイメントとして読めば面白い作品である。女たちの心理が良く分かる、女性の方に、特にお勧めである。

2017年7月17日月曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第八回)(「群像」2017年7月号掲載)

<第八回のあらすじ>
 今月は、アルルで鮨職人をしているSusanooの、生い立ちから鮨職人になるまでの経緯が語られている。それだけだ。これからの筋につながるような、特別なトピックスはない。しかし、SusanooHirukoと同じ国から来たようである事から、新しい展開の端緒になる章だろう。
 Sussanooは、福井から造船技術を学ぶためにドイツ北部のキールにやってくるが、サッカー競技場で開かれた闘牛の会場で見かけた、真っ赤なドレスを着た姿勢のいい女性に惚れてしまう。彼女を追って、アルルまで来る。苦労して探し当てた家で、大男に投げられて大怪我をしてしまう。キールに戻る気にもなれず、アルルのレストランでアルバイトをしている時に、鮨職人として雇われる。このようにして、新たな登場人物、Susanooが紹介される。

延江 浩 著「愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家」


 新聞の紹介記事(書評)だったか、宣伝を見て、面白そうだったので図書館で借りて読んだ。
 AMAZONの内容紹介は、以下の通りである。
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戦前最強の思想的家柄・頭山家と戦後最強エンタテイメントの家柄・松任谷家という「ネオ名家」を軸に織りなす決定版戦後史。
「昭和」の主音(キーノート)とは何だったのか。
ユーミンも知らなかった、両家の歴史が明らかになる。
昭和という時代、面白い出来事、場所、人の近くには決まって「松任谷家」の人々がいた。そして、昭和をつらぬく精神性の基盤には決まって「頭山家」の信念があった。
「松任谷家」の「発明」精神と、「頭山家」の「尊皇」精神ーー。
「昭和」を、この上なく面白くスリリングな時代にした両家のハイブリッドの軌跡を描き出す。
金を無心し、そのためだけに生きる輩が大半の中、その精神の気高さが光る、松任谷家と頭山家。エスプリで時代を切り拓き、大きな足跡を残した彼らは、群れることをせず、あくまでもインディペンデントでアマチュアだった。
優雅とは俗から離れてゆとりがあること。
頭山家と松任谷家は、恍惚と絶望が絶えず交差する現代史の中でさまざまな試練を与えられながらも、確かな目で文化を産み、選び、育ててきた。真に日本人らしくある、といことはどういうことなのか? 「優雅なアマチュア」でい続けることが、これからの日本人にとっての生きる指針になるだろう。
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 松任谷正隆の伯父・健太郎の妻、尋子が頭山満の孫になる。
 千駄ヶ谷の松任谷ビルの地下には、エキゾチカ(易俗化)という尋子夫妻が経営する会員制のクラブがあった。また、川添梶子夫妻が経営する飯倉片町にあったレストラン・キャンティ。そこには、多くの文化人や芸能人、政治家などが現れた。
 本書は、松任谷正隆につながる音楽関係者、例えば、「はっぴえんど」の面々、加藤和彦、「キャラメル・ママ」の面々などや、正隆のいとこになる画家でタレントの松任谷國子につながる人々、また頭山満を訪ねてきた人々の事が、成書に書かれている事や主に國子の姪にあたる玉子から聞いた事などから、書き綴られている。
 内容は、上記の紹介記事に書かれているほど深みのあるものではなく、大変がっかりした。所詮、日々、生きるのにあくせくしてきた、私のような庶民には関係のない、ゆとりのある人たちの世界が描かれているだけだ。
 しかし、暇つぶしに読む、軽い作品と考えれば良く、スムーズにかつ面白くは読めた。
 ただ、頭山満をフィクサーとして手放しで称賛したり、「フォークル」の「イムジン河」発売中止の理由を朝鮮半島分断を歌った内容だから、と間違った事が書かれていたり、と問題点もある

 著者のノンフィクション作品に関する姿勢にも疑問が残る。

2017年7月5日水曜日

武田 徹 著「日本ノンフィクション史  ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」(中公新書)


 著者は、”はじめに” に書いている。「小説中心の文学史の本ってそれこそ掃いて捨てるほどありますが、そう言えば、ノンフィクション史の本ってありませんよねー。」。かつて、「ノンフィクション作家」の肩書きで呼ばれていたこともある著者が、この本を書く事になったのは、上記の事が動機らしい。

 この本は、表紙の裏に書かれているように、記録文学、ルポルタージュから初めて、ノン・フィクション、ニュージャーナリズム、私ノンフィクション、そしてケータイ小説、リテラリー・ジャーナリズム、アカデミック・ジャーナリズムに至るまで、その定義と実例を挙げて論じている。しかし、単なる解説にとどまらず、その時々の社会状況を踏まえて、(ノンフィクション)作品がどう変わっていったかをたどっているのが良い。一読に値する新書である。


2017年6月25日日曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第七回)(「群像」2017年6月号掲載)

<第七回あらすじ>
 クヌートは母親にノルウェーのオスロ行きを引き止められる。病気だ、と言う。外に出られない、と言う。知らない人と話す気になれない、と言う。夜眠れない、と言う。よくよく聞いてみると、一種の慈善事業として生活費を出してやっているエスキモーの医学生がいなくなってしまった、と言う。<<ここでは示されないが、この留学生というのはテンゾのことではないか?>>
 結局、母親はオスローに、昔の友達に会いに行くことになる。しかし、クヌートはHirukoを紹介するのが嫌でオスローに行くのを取りやめる。一方、オスローではアルルに行くと、という話しが進んでいる。


 モネと浮世絵の関係、富士山とノルウェーのコルサース山との関係など、今回も異文化の衝突が描かれる。アルルに行けば、また新しい広がりが出る事が期待される。

2017年6月3日土曜日

中原清一郎著「消えたダークマン」(文藝2017年夏号掲載)

 中原清一郎とは学生時代に「北帰行」で文藝賞を受賞した外岡秀俊(そとおかひでとし)のペンネームである。新人ではあるが、文章とストーリーのうまさに感心し、完成度の高さにびっくりしたことを覚えている。その後、朝日新聞に入社し、記者として編集局長まで上り詰めるとともに、良質な記事やドキュメンタリー(風エッセイ?)を出してきた。だから、3年前に、「脳間海馬移植」によって末期ガンになった男が、女と入れ替わるというテーマの「カノン」(文藝2014年春号掲載)を著した時、期待を持って読んだ。新聞や文芸雑誌での評判は悪くなかった。しかし、私は正直、がっかりしたテーマのみが先行し、その出来は、「北帰行」やドキュメンタリーのレベルからはほど遠かったからだ。
 今回のテーマは、コソボ紛争やイラクのクウェート侵攻という記者時代の経験や知識を生かしたものであり、期待が持てた。「ダークマン」は、アナログカメラ時代のフィルムの現像処理のプロ、「暗室マン」の和製英語だ。今は、カメラはデジタル化され、ダークマンが消えたように、「戦争から暗部が拭い去られ、すべての位置に焦点が合ったパンフォーカスの絵葉書写真のように、妙に鮮明で人工的な風景が、戦場には広がっている」
 戦場を描くことで生き生きとした筆致になっている。だから、すらすらと澱みなく、読み進む。
 しかし、これは小説なのだろうか?小説は論文とは違って、そこに書かれていることへの正しい理解を求めてはいない。そこには、おやっ、と思うようなことや曖昧な事が書かれていなければならない。なぜなら、一元的な理解を求めずに、読者それぞれの読み方を期待しているからだ。
 この小説は、どうだろうか?著者の知性を前面に打ち出した小説になっていると感じるのは私だけだろうか?。私が若い時に親しんだ多くの小説に近いと思う。今は、失われ去ろうとしている形だ。村上春樹が多くの人に読まれるのは、彼独特のいかようにも理解出来るワールドがあるからであり、いまだもって漱石が読まれるのも同じような理由だろう。外岡という類まれなる小説家は消え去ってしまったのだろうか?私はそうは思わない。次の作品に期待したい。

2017年5月17日水曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第六回)(「群像」2017年5月号掲載)

<第六回あらすじ>
 Hirukoとノラはオスロのレストランでテンゾに難なく会える。
 Hirukoはノラの勧めでテンゾと話すが、すぐに「同じ国」から来た人間ではないと分かる。しかし、彼、ナヌークと話してみて自分がしゃべっている言語に実感が持てる。
 クヌートは母の病気で来られず、替わりにアカッシュが来て、Hirukoはがっかりする。
 翌日、ナヌークが出るコンテストを見るために、「シニセ・フジ」に行く。だがイベントは中止になっていた。理由は、「キハダマグロは太平洋クロマグロに次いで絶滅してしまう。だからコンテストに使うべきではない」という自然保護団体からの電話に、主催者が反発し、ノルウェーの伝統として鯨料理を披露しようとしたのだが、朝、海岸に上がった鯨が主催者らにより殺されたのではないかという警察の疑いにおそれをなしたためだ。ナヌークにも疑いが掛けられ事情聴取のために警察に出頭するが、無罪となる。

 著者が連載ものをどのように書いているかは分からないが、締切に間に合うように枚数を限って書いていると、このように盛り上がりに欠ける章が出てくる。ストーリーも、やや中だるみで、無理矢理に作っている感じがある。
 新たな登場人物と言えるかどうか分からないが、それを予想させる人は、安宿(ホステル)の管理人でスケッチブックを眺めていた、南フランスから来たクロード、そしてナヌークが紹介したアルルに住む、フクイという町の出身者、Susanoo。未だ、話は序盤だ。

2017年5月9日火曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第五回)(「群像」2017年4月号掲載)

<第五回あらすじ>
 テンゾはグリーンランドからデンマークの首都コペンハーゲンに留学したエスキモーの若者であった。彼は「鮨」の店でアルバイトして、「鮨の国」やダシに興味を覚えた。新学期前の三ヵ月の休暇中にドイツまで旅をし、色々の経緯があってトリアに着いたのだ。

 また一人、異言語を話す、そしてまた異文化で育った人物が登場した。これからどうなるのか、多和田得意の領域の話に惹きつけられる。

2017年4月13日木曜日

岡本 雅享 著「出雲を原郷とする人たち」


 朝日新聞に書評が載っていた。面白そうなので市の図書館から借りた。
 しかし、大和朝廷ができる前に、出雲系の人々が多くの場所に住んでいたとか、出雲から様々な場所に移住したとかいう内容を考えていたのだが違っていた。しかも想定したよりもびっしりと字が詰まっていて、本文は何と330ページ強ある。それで読み切れなかったという分けではないが、些事にかまけて後回しになり、52ページ(越前国9節)で挫折してしまった。
 越前国の章などは、ソリコ舟を操る反り子の話が出てきて、それが移住した証しであるなど、実証的であり、内容は面白い。しかし、遡って、せいぜい700年代(八世紀)の話である。期待していたものとは違っていた。時間に余裕ができ、(図書館の本なので)待ち人がいなくなったら読んでみたいと思うが、多分、そんな時期は来ないと思う。


 金達寿が著した「日本の中の朝鮮文化」の手法に似ていなくもない。真剣に読み始めれば面白いだろう。こういった実証的歴史本が好きな方には、お勧めの一冊ではある。

2017年3月31日金曜日

井家上隆幸著「三一新書の時代(出版人に聞く16)」(論創社、2014年発行)

 どの世代までなら三一新書を覚えているだろうか?というのも、現在、三一新書を見かけないからだ。
 実は発行元の三一書房では、1998年夏から長期労働争議があり、2011年に生まれ変わった。
 従って、それまで発行されていた新書は、今は店頭にはない。同社のホームページに掲げられている新書は、いずれも2011年発行のものだけである。
 まあ、それはともかく、人々が記憶している三一新書は、その年齢によって内容が違うだろう。
 五味川純平の「人間の條件」は、第一部が発行されたのが1956年で、第六部で完結したのが1958年だから、今から約60年前になる。この頃10代後半からそれ以上であったとするならば、70代以上の人になるだろう。もちろん、1960年代、70年代に読んだ人もいるだろう。その人たちでも、多分、60代以上になっているだろう。
 五味川純平の著作は、三一書房から出版されたものが多いが、新書として記憶に残っているのは「自由との約束」(全6部、1958~60年)、孤独の賭け(全3部、1962~63年)、「戦争と人間」(全18巻、1965~82年)ぐらいだ。「戦争と人間」を読んだという人は60代以上が多いだろう。
 三一書房の編集者には、最初の頃は日本共産党の党員あるいはその支持者が多かったらしい。しかし、次第に党から離れ構造改革派に近寄り、一時は長洲一二など構造改革派のメンバーも多く出したらしい(新書No.272及び273「日本社会党」上下の著者である笹田繁は安東仁兵衛のペンネームであるという)。その後、新左翼に接近し、東大全共闘編の「果てしなき進撃」、秋田明大ほかの著作「大学占拠の思想」などの出版が続いた時期もある。これらを覚えているのも60代以上だろう。
 日本消費者連盟編著の「あぶない化粧品」や「不良商品一覧表」、「合成洗剤はもういらない」、郡司篤孝の「危険な食品」などの企業告発(?)物を覚えているのは、50代以上だろうか?
 こう見てくると、三一新書を覚えているのは、かなりの年齢になっていると言えるだろう。ただ、そのインパクトは結構あったような気がする。
 この本に書かれていることで付け加えると、女性問題(?)に関するものも出しているという。石垣綾子の「女のよろこび」、上坂冬子の「私のBG論」などだ。
 また、ミステリー・スパイものを含めた小説もある。たとえば三好徹の「風塵地帯」、邦光史郎の「夜の回路」などだ。
 ゲリラに絡んで、ゲバラの「ゲバラ戦争」、「ゲバラ日記」、カルロス・マリゲーラの「都市ゲリラ教程」も新書になっているという。
 書きおくれたが、この本の著者となっている井家上隆幸氏は元三一書房の編集者で、1958年の入社から1972年の退社まで、三一新書の編集にも携わった。この本はインタビュー形式であるが、著者のあとがきに依れば、インタビュアーは小田光雄という評論家・翻訳家らしい。時間の制約があったのか、著者の性格のせいなのか、あとがきに書かれているように、この本は『出版界の「歴史」を体験的に記録しようとする』、この”出版人に聞く”シリーズの意図からかなり逸脱し、”私的事情”をさらけだす始末になってしまっている。私が期待した、新書の編集理念や経緯などは、殆ど書かれておらず、表層的な時代ごとの傾向話になっていたのは残念であった。
 因みに、見える範囲で私の本棚にある三一新書は、以下の3点であった。
 日沼倫太郎著「現代作家案内 昭和文学の旗手たち」(No.574)
 埴谷雄高編「内ゲバの論理」(No.829)
 五味川純平著「戦争と人間16」(No.841)

2017年3月20日月曜日

夏目漱石作「吾輩は猫である」

 2014年の4月から続いた朝日新聞朝刊での夏目漱石の小説の連載が間もなく終わる。
 最初は「こころ」(110回、2014.4/20~9/25)、次いで「三四郎」(117回、10/1~2015.3/23)、「それから」(110回、4/1~9/7)、「門」(104回、9/21~2016.3/3)、「夢十夜」(10回、3/9~3/22)、「吾輩は猫である」(4/1~)が掲載された。ここまで飽きもせずに読んできたが、「夢十夜」と「吾輩は猫である」以外は、一度読んだことがあった。

 「猫」を読み始めた時、これは確かに世間で言われてきたように落語の影響を受けている、漫談だ、と思った。しかし、話が進むに連れ、文明、文化、社会、研究批評(時評、戯評)になってきた。これがなかなか面白い。

 小説は論文とは違って型が決まっていない。だから、これが小説か?と思っても、面白ければ良いと納得した。余り面白いので、内田百閒作の「贋作吾輩は猫である」を読みたくなって、市の図書館に予約した。

2017年3月16日木曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第四回)(「群像」2017年3月号掲載)

<第四回あらすじ>
 ウマミ・フェスティバル主催者のノラは、1ヵ月前に古代ローマ帝国時代の浴場の遺跡で、足を怪我して歩けなくなっているテンゾを救い、一緒に暮らす事になる。ノラはテンゾが鮨の国から来た事を知り、彼を講師にフェスティバルを開催する事を決める。しかし、テンゾが政情不安でノルウェーから帰国できなくなり、フェスティバルを中止せざるを得なくなる。失意のノラは、テンゾと出会った遺跡に行くと、そこにはクヌート、Hiruko、アカッシュがいる。Hitrukoは、テンゾは国が消えてしまったためパスポートを持っていないので、身分証明書を提示しなければ空港には入れないのではないかと言う。事情を知った、ノラ、Hiruko、クヌートはオスローに行く事を決意する。

 鮨の国が消えてなくなっているにもかかわらず、未だ国というものが残っており国境が存在する環境で、どこにも色んな国の料理がはびこっている状態は、今からどのくらい後の時代を想定しているのだろうか?物語は少しずつ動き始める。 

2017年2月22日水曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第三回)(「群像」2017年2月号掲載)

 クヌートとHirukoはルクセンブルグの空港でアカッシュというサリーを着たトランスジェンダーのインド人に出会う。アカッシュは、クヌートを「美味しそうな青年」と感じる、と同時にどこの出身か分からないHirukoにも興味を持つ。彼(?)は、二人の関係や話す言葉、仕事にも興味を持つ。そして、二人の目的地を案内しながら、お互いに言葉を交わす。
 話す言葉が色々なだけではなく、3番目のジェンダーが現れて、今後の進展が楽しみになってきた多和田の小説には知性が感じられる。会話や地の文(結局全てと言う事?)に、歴史や文化が散りばめられ、それに乗るようにリズミカルに読書が進む。

2017年1月21日土曜日

ジョン・アーヴィング著「ひとりの体で」

 
 
 
 BSジャパンに、オードリーの若林が司会で、小説家と話しをする「ご本、出しときますね?」という番組があった。それが、今年の1月2日にお正月スペシャルで復活した。
この回には、朝井リョウ、西加奈子、村田沙耶香、綿矢りさという、直木賞受賞者2名、芥川賞受賞者2名という豪華メンバーであった(これまでも、何かの文学賞を受賞している作家が出ていた、と記憶している)。
 この番組では、作家が「本が苦手な人にオススメの一冊」と「悔しいけど・・・面白かった一冊」を紹介するのだが、西加奈子の今回の「悔しいけど・・・」は、ジョン・アーヴィングの「ひとりの体で」であった。彼女はアーヴィングが好きで、新作が発売されると必ず直ぐに買って読むそうである。それほど、アーヴィングが好きな彼女が、この作品はとっても面白かった、というので、早速、図書館で借りた。字の大きさも普通で、行間も詰まっていて、上下2冊という、かなり大部な作品である。

 何を言おう、私も彼女ほどでないが、アーヴィングファンである。これまで、いくつかの作品を読んでいるが、どれも大変面白かった。しかし、彼の作品は取っつきが悪く、話しの調子が良くなるまでに、結構、ページ数がかかる。翻訳物という事もあるのかもしれない。この作品は特にそんな感じで、さすがの私も、他に読む本があるせいで、第一章で中断せざるを得なくなった。時間が空いたら読む事にしたい。

2017年1月20日金曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第二回)(「群像」2017年1月号掲載)

 
 前回は、今後主人公と行動を共にすると思われる、デンマークに暮らす言語学の研究者クヌートから見たHirukoとの出会いが語られた。今回は、Hirukoが、移民の子どもたちにメルヘンを通してヨーロッパを知ってもらう活動をしているメルヘン・センターに、紙芝居を見せる事で職を得た話し。彼女は、紙芝居を、日本と思われる彼女の母国の昔話を基に作っていた。そんな話しの中で多和田得意の言葉の違いの話しが織り込まれる。しかし、第一回ほど歯切れが良くない。
 多和田といえども、月に一回の連載では、書き方に山谷(やまたに)が現れるのだろう。一回の枚数が少ない、間隔のあいた連載物は、書くのは楽だろうが、このような波が出るのは致し方ないだろう。第二回は平凡駄作である。

2017年1月10日火曜日

多和田葉子作「地球にちりばめられて」(第一回)(「群像」2016年12月号掲載)

 群像12月号(2016年)から、多和田の小説の連載が始まった。同誌のHPには、次のように書かれている。
突然テレビから聞こえてきた「不思議なほど理解できる」言葉。それは彼女が「作り出した」言語だった――。その正体は奇跡か、未来か? 若手言語学者と消滅した島国の生き残りによる、不思議な冒険が始まった! 新連載、多和田葉子「地球にちりばめられて」。著者が果てしない想像力で描く“新しい神話”です。

 近未来の話らしい。場所はデンマーク。クヌートという言語学科の院生が、”自分が生まれ育った国が存在しない人たちばかりを集めて話しを聞く”、という主旨の番組をテレビで見たところから話は始まる。その中で、手作りの言語で話す、中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島で生まれ育った女性Hirukoに興味を持つ。女性は、「一年の予定でヨーロッパに留学し、あと二ヵ月で帰国という時に、自分の国が消えてしまって、家に帰れなくなってしまった」、と言う。クヌートは彼女に会いたくて、すぐにテレビ局に電話すると、ロビーで会える事になる。そして、寿司レストランで食事しながら言葉の話をし始める。
 Hirukoの、母国は明らかに日本である。なぜなら彼女の話す言葉(単語)ー寿司、北越、新潟県、かんじき、ゆきうさぎ、歌舞伎、抹茶などーが日本語で、育った環境もそうらしい。

 久しぶりに多和田得意の言語の話で、今後のストーリーに期待が持てる。

多和田葉子の連作小説:ベルリンを舞台に(「新潮」連載)#3

 多和田葉子の連作も2016年の10月号を持って完結した。
連作10:マヤコフスキーリング(2016年10月号)<わたしの隣にすわっているのはマヤコフスキーだった――街から贈られた出会いと別れ。>


 廃業したはずの喫茶店が開いているので入ってみると誰もおらず、やはり営業していない。その窓際の席に座った時に、ガラスの向こうにマヤコフスキーを見かける。話しかけるが、それはガラスに映った彼女の顔であった。マヤコフスキーが入ってくるところを思い浮かべたら途端、生暖かい息を頬に感じる。彼が隣に座っていた。彼は、「ドアが開いて、あの人があらわれる」と言う。あの人とは、彼の親友でリーリャの夫でもあるオーシブという男だという。リーリャを挟んで三角関係にあった。

 この話は、すべて主人公の空想である。彼女の話す、”あの人”は最後までついに現れなかった。”あの人”とは、マヤコフスキーの事なのだろうか?それとも、全く違う男なのだろうか?そんな事はどうでも良い作品の様な気がするが、やはり知りたくなる。

2017年1月9日月曜日

綿矢りさ、金原ひとみの本が同時発売

 今日の朝日新聞2面の下部に、”第130回芥川賞 最年少同時受賞から13年 朝日新聞連載 初の同時発売!!”、との宣伝が大きく出されていた。いずれも9月からだったと思うが、12月までの3ヵ月間、漱石の「猫」を含めて三つの連載小説を読んできた。「猫」は別格として、この二つの小説には期待するところがあった。詳細は別に書くとして、綿矢りさの「私をくいとめて」期待外れ大江健三郎賞も受賞している作家の作とは思えなかった。金原ひとみの「クラウドガール」は、9月1日から土日も休まず連載が続けられた、まあまあの力作であるが、未だ未だ続くだろう、これからが面白そうだという期待を持った昨年暮れに尻つぼみのように終わりになってしまった。しかし、結構読ませる作品にはなっている。及第点をあげても良いだろう。こちらも詳細は別途投稿したい。